【文庫集成】ヴィンデルバント・その六
「あれって、実はネガティブ・キャンペーンだよね」との言いがかりの絶えない「文庫集成・新カント学派とその周辺」、第六回目です。今回はヴィンデルバント編、とりあえず第一部のラストとして次のものをご紹介。
ヴィンデルバント『哲学概論 第二部』速水敬二・高桑純夫・山本光雄訳 岩波文庫
西南カント学派を代表する哲学者・ヴィンデルバントの主著『哲学概論』第二部の邦訳です。本部では第一部の議論を前提としつつ、西南ドイツ学派の本領ともいうべき、道徳・美学・宗教からなる<価値論の諸問題>を、ヴィンデルバント独自の価値哲学に依拠しつつ論じていきます。なおヴィンデルバント『哲学概論』につきましては前回の「【文庫集成】ヴィンデルバント」の記事を、またヴィンデルバントにつきましてはこの特集初回の記事を、それぞれご参照いただければ幸いです。


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ちょっくら間があいてしまいましたね。前回、和辻『倫理学』がらみではこの下巻の方が重要だのなんだの言って気を持たせてしまっていただけに申し訳ないです。先週末にはアップするつもりだったのですが、訃報が次々に入ってきたり、それを言い訳にして更新をさぼったりしていたわけです。まあ私は飽きっぽい人間なので、またちょっと目先が変われば頑張れる(はず)かと思いますので、懲りずにお付き合いくださいませ。
さて本書ですが、うーん・・・やっぱりどうしても、和辻『倫理学』がらみになってしまうかな。いや、美学に関しても宗教学に関しても興味深い論点はあるのですが、例えばカント―シェリングを援用しつつの「無意識的なるものの深処」を具象化する者/物としての天才/芸術論(p158)だとか、あるいはSeinとSollenの位相差の見誤りから生じる(とされる)ペシミズムの問題(第三章「宗教問題」の終盤)だとか、すでに『プレルディエン』の諸論考がらみで紹介した論点が多いですし。まあ、宗教論はヴィンデルバントの立場から出てくるのはなんとなくわかるのですが(すでにどこかの記事で書いたとおり)、でもおざなりな議論しかされていないように見える、美学のハナシっているのかなあ。どう思います、ヴィンデルバント主義者の美学者のみなさま?
で、その『倫理学』がらみで興味深い、第二部第一章「道徳問題」ですが、とりあえず体系構成的な問題についてだけ、報告しておきます。まずこの章の冒頭でヴィンデルバントは、「道徳的行為の主体」として、「一つは個人、一つは社会団体、最後に歴史的発展のうちに含まれる種族」を挙げ、これに応じて第二部第一章を「道徳論、社会論及び歴史哲学」に区分するわけですが(p21)、これが和辻倫理学の上巻・中巻・下巻の構成に対応していることは、極めて見えやすいことであるわけです。んで、<sittlich>という言葉が「性的状態や性的犯罪」を意味するという、Y先生が好んで冗談にするところのドイツ語の裏話(p26)や、まあ自由意志論だの責任論などを含む道徳論を挟んで、はなしは「第十六節 意志共同体」に移る。そしてそこでは個人が意図することなく参与する団体を「自然的団体と歴史的団体」に分け、この区分に応じて、最も自然的な団体である家族から、民族団体、経済団体を経て、「殆んど自然的ではない、却ってその本質上歴史的に制約された」団体である国家が登場することになるわけです。まあでも、平行関係はここまでかな。やっぱりヴィンデルバントの根っこには、カントが「無上命法を叙述するに際し」依拠した、「そこから脱出し得ざるこの理想的意志共同体の概念」(p71)、つまり目的の王国が、国家を超える至高の共同体・団体として想定されていたはずだし、国家への重力のかかり方にしても、和辻に比べればもっと軽い。さらにいえば「三つの倫理の原動力、風習、道徳、法律」はそれぞれ独立した領域として互いに相互関係のうちにあり、それら相互の強弱によって社会生活の性格も決まってくることになっていて、風習(あくまで広い意味、それも和辻の肯定的に言う意味でのそれね)に道徳や法律の問題を解消する和辻の構えとは、やっぱり根本的に違う。まあ体系の枠組みそのものについてはヒントを受けながらの換骨奪胎、というのでは生ぬるいか、むしろ庇を借りて母屋を乗っ取った、という事情がうかがえて、なかなか興味深い。ただ傍観者の立場を離れ、どちらに優位をみとめるかとなると、これがなかなか難しい。やっぱり和辻倫理学体系は、どうしても硬直化して単線的になりかねない性格を持ち、これに比べればヴィンデルバントの体系の柔軟性に学ぶべきものはあるのだけど、でもねえ。なんというか、解答をあとにあとに保留して、結局最後まで答えは出ない、みたいな、なんかカントの一番よくないところだけ受け継いでしまっているような。結局道徳論・社会論での矛盾は歴史哲学に持ち越されるのですが、そこで解決したとは思わないし、さらにヴィンデルバントの体系から、必然的に出てきてしまうSeinとSollenの相克を説くべきはずんp宗教論も、なんか本書を締めるにしては弱く、説得もせられない。うーん、はじめに統一ありき、ってのは、やっぱり偉大なのかなあ。ともかく、このあたり、体系構成が似ているだけに、一元論者と多元論者(こういう整理が当たっているかは微妙ですが)の立場を比較検討するには便利そうで、やはり和辻『倫理学』と併せて読んでみるといろいろ発見があってよいのではないでしょうかねえ。
ともかく今日はこんなところで。先日お断りしたように、ヴィンデルバントはこれでいったんお休みです。次はどうするか、まだ迷いの中ですが、まあ「文庫集成 新カント学派とその周辺」は続けていくつもりですので、まだまだお付き合いくださいませ。
ヴィンデルバント『哲学概論 第二部』速水敬二・高桑純夫・山本光雄訳 岩波文庫
西南カント学派を代表する哲学者・ヴィンデルバントの主著『哲学概論』第二部の邦訳です。本部では第一部の議論を前提としつつ、西南ドイツ学派の本領ともいうべき、道徳・美学・宗教からなる<価値論の諸問題>を、ヴィンデルバント独自の価値哲学に依拠しつつ論じていきます。なおヴィンデルバント『哲学概論』につきましては前回の「【文庫集成】ヴィンデルバント」の記事を、またヴィンデルバントにつきましてはこの特集初回の記事を、それぞれご参照いただければ幸いです。

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ちょっくら間があいてしまいましたね。前回、和辻『倫理学』がらみではこの下巻の方が重要だのなんだの言って気を持たせてしまっていただけに申し訳ないです。先週末にはアップするつもりだったのですが、訃報が次々に入ってきたり、それを言い訳にして更新をさぼったりしていたわけです。まあ私は飽きっぽい人間なので、またちょっと目先が変われば頑張れる(はず)かと思いますので、懲りずにお付き合いくださいませ。
さて本書ですが、うーん・・・やっぱりどうしても、和辻『倫理学』がらみになってしまうかな。いや、美学に関しても宗教学に関しても興味深い論点はあるのですが、例えばカント―シェリングを援用しつつの「無意識的なるものの深処」を具象化する者/物としての天才/芸術論(p158)だとか、あるいはSeinとSollenの位相差の見誤りから生じる(とされる)ペシミズムの問題(第三章「宗教問題」の終盤)だとか、すでに『プレルディエン』の諸論考がらみで紹介した論点が多いですし。まあ、宗教論はヴィンデルバントの立場から出てくるのはなんとなくわかるのですが(すでにどこかの記事で書いたとおり)、でもおざなりな議論しかされていないように見える、美学のハナシっているのかなあ。どう思います、ヴィンデルバント主義者の美学者のみなさま?
で、その『倫理学』がらみで興味深い、第二部第一章「道徳問題」ですが、とりあえず体系構成的な問題についてだけ、報告しておきます。まずこの章の冒頭でヴィンデルバントは、「道徳的行為の主体」として、「一つは個人、一つは社会団体、最後に歴史的発展のうちに含まれる種族」を挙げ、これに応じて第二部第一章を「道徳論、社会論及び歴史哲学」に区分するわけですが(p21)、これが和辻倫理学の上巻・中巻・下巻の構成に対応していることは、極めて見えやすいことであるわけです。んで、<sittlich>という言葉が「性的状態や性的犯罪」を意味するという、Y先生が好んで冗談にするところのドイツ語の裏話(p26)や、まあ自由意志論だの責任論などを含む道徳論を挟んで、はなしは「第十六節 意志共同体」に移る。そしてそこでは個人が意図することなく参与する団体を「自然的団体と歴史的団体」に分け、この区分に応じて、最も自然的な団体である家族から、民族団体、経済団体を経て、「殆んど自然的ではない、却ってその本質上歴史的に制約された」団体である国家が登場することになるわけです。まあでも、平行関係はここまでかな。やっぱりヴィンデルバントの根っこには、カントが「無上命法を叙述するに際し」依拠した、「そこから脱出し得ざるこの理想的意志共同体の概念」(p71)、つまり目的の王国が、国家を超える至高の共同体・団体として想定されていたはずだし、国家への重力のかかり方にしても、和辻に比べればもっと軽い。さらにいえば「三つの倫理の原動力、風習、道徳、法律」はそれぞれ独立した領域として互いに相互関係のうちにあり、それら相互の強弱によって社会生活の性格も決まってくることになっていて、風習(あくまで広い意味、それも和辻の肯定的に言う意味でのそれね)に道徳や法律の問題を解消する和辻の構えとは、やっぱり根本的に違う。まあ体系の枠組みそのものについてはヒントを受けながらの換骨奪胎、というのでは生ぬるいか、むしろ庇を借りて母屋を乗っ取った、という事情がうかがえて、なかなか興味深い。ただ傍観者の立場を離れ、どちらに優位をみとめるかとなると、これがなかなか難しい。やっぱり和辻倫理学体系は、どうしても硬直化して単線的になりかねない性格を持ち、これに比べればヴィンデルバントの体系の柔軟性に学ぶべきものはあるのだけど、でもねえ。なんというか、解答をあとにあとに保留して、結局最後まで答えは出ない、みたいな、なんかカントの一番よくないところだけ受け継いでしまっているような。結局道徳論・社会論での矛盾は歴史哲学に持ち越されるのですが、そこで解決したとは思わないし、さらにヴィンデルバントの体系から、必然的に出てきてしまうSeinとSollenの相克を説くべきはずんp宗教論も、なんか本書を締めるにしては弱く、説得もせられない。うーん、はじめに統一ありき、ってのは、やっぱり偉大なのかなあ。ともかく、このあたり、体系構成が似ているだけに、一元論者と多元論者(こういう整理が当たっているかは微妙ですが)の立場を比較検討するには便利そうで、やはり和辻『倫理学』と併せて読んでみるといろいろ発見があってよいのではないでしょうかねえ。
ともかく今日はこんなところで。先日お断りしたように、ヴィンデルバントはこれでいったんお休みです。次はどうするか、まだ迷いの中ですが、まあ「文庫集成 新カント学派とその周辺」は続けていくつもりですので、まだまだお付き合いくださいませ。
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