西田哲学のコンテクスト
「文庫集成 新カント学派とその周辺」をお待ちのかたは、もうしばらくお待ちください。次回こそは必ず、ですので。今日はあのシリーズの最新作を。
荒谷大輔 『西田幾多郎―歴史の論理学』講談社(再発見 日本の哲学)
現象学やベルクソンを中心とするフランス哲学関係でお仕事のある若手の哲学・倫理学研究者、荒谷大輔氏による西田論の試みです。本書では、ともすれば<西田哲学>の文脈で自足しがちな西田のテクスト群を、タルスキ、クリプキ、ラカンなど、現代思想のテクスト群へと対置することで、西田の哲学を現代の論争群へ、そして西田哲学の<他者>へと、接続することが試みみられます。

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えーっと、これは、本書の末尾を見ると一月二十一日刊行、そして私の裏メモを見ると、二十三日購入となっていますね。どうもこのごろ、どうしても読みたい新刊書が多すぎて、どれも紹介するのが遅れがちなのですが、これはまあまだ早めに紹介できたほうかな。このシリーズもついに五作目ですか。本丸なども登場しつつ、いよいよ盛り上がってくるころですが、今後もできる限り紹介していきたいと思います(実はまだ野矢さんの大森論は買ってすらいないけど。お勧めしてくれたOくん、ごめんなさい)。
さて内容ですが、まあ、さんざんひとさまから「君は、世間知らずだ」と罵られる私にも、これは西田屋さんにはいろいろと大変な反響を巻き起こすだろうし、西田の入門書や概説書を期待していた読者を驚かせるであろうことは、なんとなく、想像がつく。まあ、そんなつまらないこと一々気にしていたら、本なんか書けないのでしょうけどね。ともかく、本書の議論の特徴だけ示せば、はっきりいって「意味不明」との診断を下されてもしかたがない表現が並ぶにも関わらず、なぜだかそれが通用してしまい、ともすれば外部に対して自閉しがちな西田業界に対し(これは他者のテクストに対しての、西田自身の問題でもあることが、本書では示されていますが)、主に「絶対矛盾的自己同一」という西田の<ロジック>を現代の論理学などと突き合わせることで、他者のロジックへと西田の思考を開くという試みなのですが、確かにこういう試みは、管見の限りでは見たことがないし、とくに前半の部分では、荒谷さんの現象学者としてのスピリットをふつふつと感じました。まあ、私の知っている限りでは、荒谷さんはもっと西田哲学へシンパシーをお感じになっているはずなので、単細胞生物の私からすると、もう少しそのあたり正直にお書きになってくださってもよかったのかなあ、とは思いますが、まあ私は、これが荒谷さんの西田への愛の表現の方法なのだろうと、理解しました。ただ、ちょっと物騒なことを書けば、こういう問題提起を受けて、黙殺するなり、無視するなりするのであれば、それこそいわゆる<西田業界>は、はっきり言ってしまえば終わっているわけで、このあとどういう反応があるのか、そのあたりも楽しみにしたいと思います。
そしてもう少し詳しく見ていくと、正直なところ、タルスキやクリプキのあたりでは、「おっしゃっていることはごもっともなんだけど、でもやっぱり、ちょっと議論の位相が違わないかなあ」という気もしたのですけど、でもそこを過ぎると、まあ納得はする。いわば西田の「絶対矛盾的自己同一」を、真偽問題とそれを支える枠組みの議論の文脈へと位置づけていき、ある立場の視座を補強しうる論理を西田の哲学にみとめることになるわけですが(なんかちょっと違うなあ。お酒のせいなのか、忠実な紹介からだんだんずれてきていっていますので、きちんとご自分で読んで判断してくださいね)、これには、「ああ、そういう読み方をすると、西田もホットだな」と思いました。まあやっぱり真理の基準をめぐる問題って、かなり単純なようで難しい問題ですから、西田の思索にそれと響き合う側面があっても不思議ではないのですが、でも本書のような観点から西田を読んだことは私はなかったので、とても新鮮でしたし、これは本書の独創的な点でしょう。荒谷さんの立たれているのは、ドゥルーズに共感を示すかたがたいていはお取りになる、いわばスコトゥス以来の<内在性>の立場で、私自身はちょっとこの立場とは距離を取りたいし、本書では意外とあっさりと片付けられているウィトゲンシュタインの立場に好意的だったりするのですが、まあ西田となるとそっちなのでしょうし、西田の哲学を<内在性>の立場から擁護する、というだけではなく、むしろ西田哲学の観点から<内在性>の立場の不可欠性を主張する、という趣もないわけではないように思えて、その意味でも参考になりました。まあ、いろいろと書いてきましたが、そりゃ西田哲学の通俗的な概説書や入門書を求めるとがっかりすることもあるかもしれませんけど、そういう縛りから離れれば、いろいろと見えてくる本ですので、皆さん買ってくださいね、というおはなしであります。
西田に関連してもう一冊。
日本哲学史フォーラム編『日本の哲学 第8号 特集:明治の哲学』 昭和堂
日本の哲学の専門誌(よく知らないので、このくらいしか説明できない)『日本の哲学』の最新号です。本号は明治の哲学特集ということで、西周、井上哲次郎、西田幾多郎、清沢満之、田辺元ら、移入してくる西洋文明と対峙しつつ、日本人の哲学の可能性を切り開いた先人たちの仕事と思想を、様々な観点から検討する論考が収録されています。坂部恵、合田正人、加藤泰史の各氏ら、西洋哲学研究をホームグラウンドとする研究者たちが論考を寄せているのが、本号の特色といえるでしょうか。
この雑誌も実は私はしらなっかった(日本思想系の雑誌って、かなりたくさんあるので)のですけど、これはこの記事のために買ったものではないです。まあ、加藤泰史先生の坂部恵論がどういうことになるのか気になったのと、そしてだいぶ昔に、どっちかのレヴィナス本(NHK出版のほうでしたっけ?)の末尾でお書きになっていたのを読んだ、合田さんの<種の論理>論が結局どんなことになったのだか、興味があって、それだけのために損をする覚悟で買ったのでした。まあでも西田周辺のものも入っていて、これで記事が書けるわけで、もとをとることはできました。両氏のものについては後述するとして、まずは記事の流れで、次の二本の論文の紹介を。
渡部清 「西田哲学の「真景」」
中村春作 「近代の「知」としての哲学史―井上哲次郎を中心に」
明治哲学を代表する思索家・西田幾多郎と、明治哲学のパイオニア・井上哲次郎を、それぞれ近代日本思想の大きな枠組みのなかで論じた論考です。渡辺論文は西田哲学理解に不可欠だが、しかし従来ともすれば軽視されてきた『大乗起信論』の重要性を指摘し、西田哲学の存在意義そのものについて、かなり深刻な問題を提起します。中村論文は、渡部氏も認める井上哲次郎の明治哲学史の文脈における重要性を指摘し、明治の新たな知の系譜学の必要性を提起します。
まあ、どっちも、荒谷さんのものからの流れでなければ読まずに済ませていたのですが、この二本を読むことになったのはラッキーでした。とくに渡部論文、これは・・・とても勉強になったし、提出している問題は、論文とは思えないほどすさまじくラディカルで、びっくりしました。いや、基本線は、まずは西田哲学を理解するための必要不可欠の前提(=真景)としての『大乗起信論』の重要性を指摘する、というのがひとつのはなしの筋で、まあこの手の議論はふつう、手前味噌なり、とんでもなりになりやすいのですが、でもこれは深く納得しました。とくにこれは荒谷さんの「絶対矛盾的自己同一」の議論を読んで理解が深まった直後だったからということもありますが、ほんとに『大乗起信論』の「真如」論・「心真如」論なんかをみると、「これ、西田哲学じゃん!」という感じでしたし、また「それなのに、『大乗起信論』を読んでない俺、まったくもってダメじゃん!」とも思いました。うーん、これって有名なはなしで、私だけ、のけものだったのかなあ?そうでないとすると、いままで『大乗起信論』―西田問題を誰も紹介してこなかったのは、深い病根のある、深刻な問題のような・・・そしてまあ『大乗起信論』を起点にすると、井上哲次郎・井上円了・清沢・鈴木大拙、そして西田などの布置関係が、まあ見えてくること、見えてくること・・・誰か『大乗起信論』の読書会でもやりません?なーんて、またそんな気になってたりして。
まあこれで終われば教育的な論文なのですが、こっからがすごい。私の発言だと思われるとまずいので、以後は引用で。「・・・「日本哲学」を専攻する人たちがいまだに井上哲次郎や井上円了、三宅雪嶺などに十分な考察を行わないまま、西田に止まっていることが精神的に拘束されているというか、大乗仏教に十分な理解を欠いたまま一種の神話を作り、それに埋没しているように思われてならない」(p70)「[西田哲学は仏教の教義のいわゆる「哲学」への密輸入にすぎず、独自の哲学とはとてもじゃないが認められないという仏教学者・袴田憲昭の批判を引いて]このような見解に西田哲学研究者はいかに答えることができるのか。「西田哲学」は「哲学」と呼べるものなのかどうかということである。少なくとも思想内容の独自性はまったくないといってよいほどである」(p71)。「[『大乗起信論』からしばし引用しつつ、自分なりの思想を提示した井上に対し]、それにひきかえ西田は起信論の名も文も一切いわずに内容は起信論そっくりという結果を作り上げたのである。(中略)「西田哲学」を性急に独自な思想体系と思いこむ(!)まえに、遅まきであるが、大乗仏教の主要な経典類をまずよく理解した上で西田が何を語ったか精査しなければならないだろう」(同)。・・・・・・・。いや、西田ファンのかたがおっしゃりたいことはよく分かりますし、西田哲学に一片のシンパシーも感じていない私も「およよ」と思いました、でもこれ、とんでもとかでは全然なくて、説得力あるのですよ、ほんとに。これは大変なことになったなあ・・まあW井上はともかく、三宅って所詮、漱石にいやらし圧力のかけ方をした『日本及び日本人』のひとでしょ、なんてことも思うのですが、でも勉強しなきゃいけないことには変わりがないようですね。まあ「「西田哲学」は哲学か」論争については、私は局外中立の立場を守りたいと思いますが、ぜひ西田研究者のかたは応答していただいて、どんぱちやっていただければと思います。
長くなってしまったので、中村論文は少しだけ。実は、たぶん現在の日本の哲学的思考にとって極めて不幸なことだと思いますが、井上哲次郎を正面から論じてくれる論考って、かなり少なくって(これは人のせいにだけするつもりはなくて、私も無意識のうちにスルーしてしまってきたのかもしれない)、ちょっと楽しみにしていたのですが、うーん、でももう少し井上に重心を乗せて、論じきってほしかったかな。まあ、私の井上についての知識なんて極めて乏しいから、この論文もありがたかったし、また渡部論文と相まって、井上の重要性がよーく分かりました。やっぱ近代日本を論じるとなると、井上も読んでおかないといけないのかあ・・・っていうか、まあさすがに和辻は学問上のご先祖様だから、私達でわっしょいわっしょいやっていかなければと思っているし、また京都のかたがたは西田をよく取り上げておられるのですが、井上は、このあたりがかわいそうなんだよなあ。井上にゆかりのある某大学の○学研究室のみなさまは、さすが洋学者の鏡、横文字を追いかけるのにお忙しく、井上なんぞには目もくれないようだし。でも一応ご先祖さまなんだから、哲っちゃんはあんたらがなんとかしてよお、なんて、押しつけてみたりして。ちょっと皮肉がすぎたかな?
えーっと、で、冒頭で述べた二本ですが、まず加藤先生の坂部恵論は、こりゃすごい。期待以上だし、私のなかではこれが読めただけでも元が取れた。いやー、分析の明晰さ、思想史的目配りの広さ、そして問題意識の水準の高さ、どれをとっても一流で、ああ、やっぱり、書評って、こうやって書くものなんですねえ、と。それに「批判の対象となる「批判哲学」そのものの内実が十分に析出されておらずブラックボックスになっており、むしろある意味で常識的で固定的に捉えられてすらいるので、それにともなって「近代」の問題構制も必ずしも明らかではないからである」(p108)なんてのは、「てへへ、やっぱり言われちゃったか」という感じだし、また末尾では「一つの場所にとどまらない「風」の爽やかさ軽やかさ。[]「風」には坂部自身の自己認識も示されているのではなかろうか。それはある点で「自己嘲笑的」でもあり、その意味で坂部の思索はみごとに一貫し完結する。しかし私は、「風」の背後に隠れて「風」そのものを起こしている(はずの)ノートを、しかも『純粋理性批判』に関する悪戦苦闘のドキュメントを読んでみたい」(p112)なんて、これはおべんちゃらとかではなくて、おそらく加藤先生の知的誠実さに裏打ちされた、熱い名文句なども飛び出すのだから(私はさすがに坂部先生に対してはもう少し冷めていて、そういうものはお書きにならないだろうと思いますが、そりゃ読めるものなら、私だって「読んでみたい」)、これは書評者としては手強い。うーん、加藤先生は世界の一線で活躍されているわりには、あまり一般の院生とかにはまだそこまで知名度はないと思うのですが(おそらくいい加減に適当なことなど決してお書きにならない、慎重で控えめなご本人のお人柄に起因しているのでしょうけど)、やっぱりもっと広く知られるべき実力をお持ちの方だと私は思います。
そして合田さんのは、まあ、いろいろと繁茂しまくりで、合田さんらしいといえば合田さんらしいし、私は嫌いなわけではないけど、でもやっぱり加藤先生の端正な論考と引き比べると、どうだ、どうだ、というのが見え見えで、えげつないというか、なんというか。それに田辺がハイデガーのカント解釈を論じている箇所で、「去勢」という言葉を使っていることから、「ファルス」や「去勢不安」へもっていく、この連想ゲームは、ねえ。いや、テクストは自由な解釈に開かれているらしいので、別にいいんスけど、でも、これはまったくの誤読だと思う。ドイツ観念論を専門のひとつとする田辺が、ましてや自我と実在の統一を論じる引用箇所で突然、生殖器を切り取る意味での「去勢」の語を用いるわけは、そりゃないわけで、ここで田辺の念頭にあったのは、普通に<depotenzieren(ポテンツを下げる、上妻訳では「勢位を失う」)>でしょう?このあたりの連想は、ドイツ観念論をまともにかじったことのあるひとなら、普通に浮かぶと思うのだけど・・・私のようないい加減な院生でも、「そりゃないッスよ、合田大先生」と思ったわけですからねえ。うーん、やっぱりこういうの見ちゃうと、正直なところ引いちゃいますし、あえて言わせてもらえば、「そういうのやりたいなら、よそでやれよ」、と。思想家としてはともかく、少なくとも同じ洋学者としては心底尊敬している田辺は、生半可な覚悟や準備で論じてほしくないのです、私は。また私のようなドイツ野郎からすれば、「これだからおフランスの連中には、近代日本思想は任せておけねえんだよなあ」なんて、やっぱり思えてしまう。なんかとっても権威的ですね、今日の私は。あと坂部先生のは、枚数が少ないこともあるけど、ちょっとおとなしいかな。まあ坂部先生については、たぶんまた近日中に。
なんか今日は、とくに後半は、必要以上に攻撃的かつ嘲笑的だったかな?まあ近代日本思想はさまざまなな立場の思惑が交差する地点で、ちょっと洋学者が論じたものを紹介するとなると、ピリピリするところもあるのです。まあそんなつまらない象牙の塔の内部の小競り合いはともかく、荒谷大輔『西田幾多郎』、そして『日本の哲学』、ともに西田哲学そのものに尖鋭な問いを突きつける意欲的な論述が読めますので、西田に親近性を感じる方もそうでない方も、関心に応じてお求めください。
荒谷大輔 『西田幾多郎―歴史の論理学』講談社(再発見 日本の哲学)
現象学やベルクソンを中心とするフランス哲学関係でお仕事のある若手の哲学・倫理学研究者、荒谷大輔氏による西田論の試みです。本書では、ともすれば<西田哲学>の文脈で自足しがちな西田のテクスト群を、タルスキ、クリプキ、ラカンなど、現代思想のテクスト群へと対置することで、西田の哲学を現代の論争群へ、そして西田哲学の<他者>へと、接続することが試みみられます。
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えーっと、これは、本書の末尾を見ると一月二十一日刊行、そして私の裏メモを見ると、二十三日購入となっていますね。どうもこのごろ、どうしても読みたい新刊書が多すぎて、どれも紹介するのが遅れがちなのですが、これはまあまだ早めに紹介できたほうかな。このシリーズもついに五作目ですか。本丸なども登場しつつ、いよいよ盛り上がってくるころですが、今後もできる限り紹介していきたいと思います(実はまだ野矢さんの大森論は買ってすらいないけど。お勧めしてくれたOくん、ごめんなさい)。
さて内容ですが、まあ、さんざんひとさまから「君は、世間知らずだ」と罵られる私にも、これは西田屋さんにはいろいろと大変な反響を巻き起こすだろうし、西田の入門書や概説書を期待していた読者を驚かせるであろうことは、なんとなく、想像がつく。まあ、そんなつまらないこと一々気にしていたら、本なんか書けないのでしょうけどね。ともかく、本書の議論の特徴だけ示せば、はっきりいって「意味不明」との診断を下されてもしかたがない表現が並ぶにも関わらず、なぜだかそれが通用してしまい、ともすれば外部に対して自閉しがちな西田業界に対し(これは他者のテクストに対しての、西田自身の問題でもあることが、本書では示されていますが)、主に「絶対矛盾的自己同一」という西田の<ロジック>を現代の論理学などと突き合わせることで、他者のロジックへと西田の思考を開くという試みなのですが、確かにこういう試みは、管見の限りでは見たことがないし、とくに前半の部分では、荒谷さんの現象学者としてのスピリットをふつふつと感じました。まあ、私の知っている限りでは、荒谷さんはもっと西田哲学へシンパシーをお感じになっているはずなので、単細胞生物の私からすると、もう少しそのあたり正直にお書きになってくださってもよかったのかなあ、とは思いますが、まあ私は、これが荒谷さんの西田への愛の表現の方法なのだろうと、理解しました。ただ、ちょっと物騒なことを書けば、こういう問題提起を受けて、黙殺するなり、無視するなりするのであれば、それこそいわゆる<西田業界>は、はっきり言ってしまえば終わっているわけで、このあとどういう反応があるのか、そのあたりも楽しみにしたいと思います。
そしてもう少し詳しく見ていくと、正直なところ、タルスキやクリプキのあたりでは、「おっしゃっていることはごもっともなんだけど、でもやっぱり、ちょっと議論の位相が違わないかなあ」という気もしたのですけど、でもそこを過ぎると、まあ納得はする。いわば西田の「絶対矛盾的自己同一」を、真偽問題とそれを支える枠組みの議論の文脈へと位置づけていき、ある立場の視座を補強しうる論理を西田の哲学にみとめることになるわけですが(なんかちょっと違うなあ。お酒のせいなのか、忠実な紹介からだんだんずれてきていっていますので、きちんとご自分で読んで判断してくださいね)、これには、「ああ、そういう読み方をすると、西田もホットだな」と思いました。まあやっぱり真理の基準をめぐる問題って、かなり単純なようで難しい問題ですから、西田の思索にそれと響き合う側面があっても不思議ではないのですが、でも本書のような観点から西田を読んだことは私はなかったので、とても新鮮でしたし、これは本書の独創的な点でしょう。荒谷さんの立たれているのは、ドゥルーズに共感を示すかたがたいていはお取りになる、いわばスコトゥス以来の<内在性>の立場で、私自身はちょっとこの立場とは距離を取りたいし、本書では意外とあっさりと片付けられているウィトゲンシュタインの立場に好意的だったりするのですが、まあ西田となるとそっちなのでしょうし、西田の哲学を<内在性>の立場から擁護する、というだけではなく、むしろ西田哲学の観点から<内在性>の立場の不可欠性を主張する、という趣もないわけではないように思えて、その意味でも参考になりました。まあ、いろいろと書いてきましたが、そりゃ西田哲学の通俗的な概説書や入門書を求めるとがっかりすることもあるかもしれませんけど、そういう縛りから離れれば、いろいろと見えてくる本ですので、皆さん買ってくださいね、というおはなしであります。
西田に関連してもう一冊。
日本哲学史フォーラム編『日本の哲学 第8号 特集:明治の哲学』 昭和堂
日本の哲学の専門誌(よく知らないので、このくらいしか説明できない)『日本の哲学』の最新号です。本号は明治の哲学特集ということで、西周、井上哲次郎、西田幾多郎、清沢満之、田辺元ら、移入してくる西洋文明と対峙しつつ、日本人の哲学の可能性を切り開いた先人たちの仕事と思想を、様々な観点から検討する論考が収録されています。坂部恵、合田正人、加藤泰史の各氏ら、西洋哲学研究をホームグラウンドとする研究者たちが論考を寄せているのが、本号の特色といえるでしょうか。
この雑誌も実は私はしらなっかった(日本思想系の雑誌って、かなりたくさんあるので)のですけど、これはこの記事のために買ったものではないです。まあ、加藤泰史先生の坂部恵論がどういうことになるのか気になったのと、そしてだいぶ昔に、どっちかのレヴィナス本(NHK出版のほうでしたっけ?)の末尾でお書きになっていたのを読んだ、合田さんの<種の論理>論が結局どんなことになったのだか、興味があって、それだけのために損をする覚悟で買ったのでした。まあでも西田周辺のものも入っていて、これで記事が書けるわけで、もとをとることはできました。両氏のものについては後述するとして、まずは記事の流れで、次の二本の論文の紹介を。
渡部清 「西田哲学の「真景」」
中村春作 「近代の「知」としての哲学史―井上哲次郎を中心に」
明治哲学を代表する思索家・西田幾多郎と、明治哲学のパイオニア・井上哲次郎を、それぞれ近代日本思想の大きな枠組みのなかで論じた論考です。渡辺論文は西田哲学理解に不可欠だが、しかし従来ともすれば軽視されてきた『大乗起信論』の重要性を指摘し、西田哲学の存在意義そのものについて、かなり深刻な問題を提起します。中村論文は、渡部氏も認める井上哲次郎の明治哲学史の文脈における重要性を指摘し、明治の新たな知の系譜学の必要性を提起します。
まあ、どっちも、荒谷さんのものからの流れでなければ読まずに済ませていたのですが、この二本を読むことになったのはラッキーでした。とくに渡部論文、これは・・・とても勉強になったし、提出している問題は、論文とは思えないほどすさまじくラディカルで、びっくりしました。いや、基本線は、まずは西田哲学を理解するための必要不可欠の前提(=真景)としての『大乗起信論』の重要性を指摘する、というのがひとつのはなしの筋で、まあこの手の議論はふつう、手前味噌なり、とんでもなりになりやすいのですが、でもこれは深く納得しました。とくにこれは荒谷さんの「絶対矛盾的自己同一」の議論を読んで理解が深まった直後だったからということもありますが、ほんとに『大乗起信論』の「真如」論・「心真如」論なんかをみると、「これ、西田哲学じゃん!」という感じでしたし、また「それなのに、『大乗起信論』を読んでない俺、まったくもってダメじゃん!」とも思いました。うーん、これって有名なはなしで、私だけ、のけものだったのかなあ?そうでないとすると、いままで『大乗起信論』―西田問題を誰も紹介してこなかったのは、深い病根のある、深刻な問題のような・・・そしてまあ『大乗起信論』を起点にすると、井上哲次郎・井上円了・清沢・鈴木大拙、そして西田などの布置関係が、まあ見えてくること、見えてくること・・・誰か『大乗起信論』の読書会でもやりません?なーんて、またそんな気になってたりして。
まあこれで終われば教育的な論文なのですが、こっからがすごい。私の発言だと思われるとまずいので、以後は引用で。「・・・「日本哲学」を専攻する人たちがいまだに井上哲次郎や井上円了、三宅雪嶺などに十分な考察を行わないまま、西田に止まっていることが精神的に拘束されているというか、大乗仏教に十分な理解を欠いたまま一種の神話を作り、それに埋没しているように思われてならない」(p70)「[西田哲学は仏教の教義のいわゆる「哲学」への密輸入にすぎず、独自の哲学とはとてもじゃないが認められないという仏教学者・袴田憲昭の批判を引いて]このような見解に西田哲学研究者はいかに答えることができるのか。「西田哲学」は「哲学」と呼べるものなのかどうかということである。少なくとも思想内容の独自性はまったくないといってよいほどである」(p71)。「[『大乗起信論』からしばし引用しつつ、自分なりの思想を提示した井上に対し]、それにひきかえ西田は起信論の名も文も一切いわずに内容は起信論そっくりという結果を作り上げたのである。(中略)「西田哲学」を性急に独自な思想体系と思いこむ(!)まえに、遅まきであるが、大乗仏教の主要な経典類をまずよく理解した上で西田が何を語ったか精査しなければならないだろう」(同)。・・・・・・・。いや、西田ファンのかたがおっしゃりたいことはよく分かりますし、西田哲学に一片のシンパシーも感じていない私も「およよ」と思いました、でもこれ、とんでもとかでは全然なくて、説得力あるのですよ、ほんとに。これは大変なことになったなあ・・まあW井上はともかく、三宅って所詮、漱石にいやらし圧力のかけ方をした『日本及び日本人』のひとでしょ、なんてことも思うのですが、でも勉強しなきゃいけないことには変わりがないようですね。まあ「「西田哲学」は哲学か」論争については、私は局外中立の立場を守りたいと思いますが、ぜひ西田研究者のかたは応答していただいて、どんぱちやっていただければと思います。
長くなってしまったので、中村論文は少しだけ。実は、たぶん現在の日本の哲学的思考にとって極めて不幸なことだと思いますが、井上哲次郎を正面から論じてくれる論考って、かなり少なくって(これは人のせいにだけするつもりはなくて、私も無意識のうちにスルーしてしまってきたのかもしれない)、ちょっと楽しみにしていたのですが、うーん、でももう少し井上に重心を乗せて、論じきってほしかったかな。まあ、私の井上についての知識なんて極めて乏しいから、この論文もありがたかったし、また渡部論文と相まって、井上の重要性がよーく分かりました。やっぱ近代日本を論じるとなると、井上も読んでおかないといけないのかあ・・・っていうか、まあさすがに和辻は学問上のご先祖様だから、私達でわっしょいわっしょいやっていかなければと思っているし、また京都のかたがたは西田をよく取り上げておられるのですが、井上は、このあたりがかわいそうなんだよなあ。井上にゆかりのある某大学の○学研究室のみなさまは、さすが洋学者の鏡、横文字を追いかけるのにお忙しく、井上なんぞには目もくれないようだし。でも一応ご先祖さまなんだから、哲っちゃんはあんたらがなんとかしてよお、なんて、押しつけてみたりして。ちょっと皮肉がすぎたかな?
えーっと、で、冒頭で述べた二本ですが、まず加藤先生の坂部恵論は、こりゃすごい。期待以上だし、私のなかではこれが読めただけでも元が取れた。いやー、分析の明晰さ、思想史的目配りの広さ、そして問題意識の水準の高さ、どれをとっても一流で、ああ、やっぱり、書評って、こうやって書くものなんですねえ、と。それに「批判の対象となる「批判哲学」そのものの内実が十分に析出されておらずブラックボックスになっており、むしろある意味で常識的で固定的に捉えられてすらいるので、それにともなって「近代」の問題構制も必ずしも明らかではないからである」(p108)なんてのは、「てへへ、やっぱり言われちゃったか」という感じだし、また末尾では「一つの場所にとどまらない「風」の爽やかさ軽やかさ。[]「風」には坂部自身の自己認識も示されているのではなかろうか。それはある点で「自己嘲笑的」でもあり、その意味で坂部の思索はみごとに一貫し完結する。しかし私は、「風」の背後に隠れて「風」そのものを起こしている(はずの)ノートを、しかも『純粋理性批判』に関する悪戦苦闘のドキュメントを読んでみたい」(p112)なんて、これはおべんちゃらとかではなくて、おそらく加藤先生の知的誠実さに裏打ちされた、熱い名文句なども飛び出すのだから(私はさすがに坂部先生に対してはもう少し冷めていて、そういうものはお書きにならないだろうと思いますが、そりゃ読めるものなら、私だって「読んでみたい」)、これは書評者としては手強い。うーん、加藤先生は世界の一線で活躍されているわりには、あまり一般の院生とかにはまだそこまで知名度はないと思うのですが(おそらくいい加減に適当なことなど決してお書きにならない、慎重で控えめなご本人のお人柄に起因しているのでしょうけど)、やっぱりもっと広く知られるべき実力をお持ちの方だと私は思います。
そして合田さんのは、まあ、いろいろと繁茂しまくりで、合田さんらしいといえば合田さんらしいし、私は嫌いなわけではないけど、でもやっぱり加藤先生の端正な論考と引き比べると、どうだ、どうだ、というのが見え見えで、えげつないというか、なんというか。それに田辺がハイデガーのカント解釈を論じている箇所で、「去勢」という言葉を使っていることから、「ファルス」や「去勢不安」へもっていく、この連想ゲームは、ねえ。いや、テクストは自由な解釈に開かれているらしいので、別にいいんスけど、でも、これはまったくの誤読だと思う。ドイツ観念論を専門のひとつとする田辺が、ましてや自我と実在の統一を論じる引用箇所で突然、生殖器を切り取る意味での「去勢」の語を用いるわけは、そりゃないわけで、ここで田辺の念頭にあったのは、普通に<depotenzieren(ポテンツを下げる、上妻訳では「勢位を失う」)>でしょう?このあたりの連想は、ドイツ観念論をまともにかじったことのあるひとなら、普通に浮かぶと思うのだけど・・・私のようないい加減な院生でも、「そりゃないッスよ、合田大先生」と思ったわけですからねえ。うーん、やっぱりこういうの見ちゃうと、正直なところ引いちゃいますし、あえて言わせてもらえば、「そういうのやりたいなら、よそでやれよ」、と。思想家としてはともかく、少なくとも同じ洋学者としては心底尊敬している田辺は、生半可な覚悟や準備で論じてほしくないのです、私は。また私のようなドイツ野郎からすれば、「これだからおフランスの連中には、近代日本思想は任せておけねえんだよなあ」なんて、やっぱり思えてしまう。なんかとっても権威的ですね、今日の私は。あと坂部先生のは、枚数が少ないこともあるけど、ちょっとおとなしいかな。まあ坂部先生については、たぶんまた近日中に。
なんか今日は、とくに後半は、必要以上に攻撃的かつ嘲笑的だったかな?まあ近代日本思想はさまざまなな立場の思惑が交差する地点で、ちょっと洋学者が論じたものを紹介するとなると、ピリピリするところもあるのです。まあそんなつまらない象牙の塔の内部の小競り合いはともかく、荒谷大輔『西田幾多郎』、そして『日本の哲学』、ともに西田哲学そのものに尖鋭な問いを突きつける意欲的な論述が読めますので、西田に親近性を感じる方もそうでない方も、関心に応じてお求めください。
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