【文庫集成】ヴィンデルバント・その肆
はやくも中だるみの気配が漂う「文庫集成 新カント学派とその周辺」、第四回目です。今回は『プレルディエン』の(文庫版)完結編として、次のものをご紹介。
ヴィンデルバント著『ソクラテスに就いて 他三篇』河東涓訳、岩波文庫
ヴィンデルバントの主著『プレルディエン(序曲)』から、ソクラテス、スピノザ、ゲーテを論じた四編を選んで訳出した一冊です。それぞれ哲学史・精神史において独自の個性を発揮し、彼らの解釈に解釈者の思考の性格が現れるといっても過言ではない、三つの偉大なる人格を、ヴィンデルバント独自の価値哲学の観点から論じていきます。なおヴィンデルバントと『プレルディエン』に関しましては、「【文庫集成】ヴィンデルバント・その壱」という当ブログの記事や、そこで指示されている文献等をご参照ください。


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いやー、ようやく『プレルディエン』編もこれで完結ですか。感慨に浸りたい気持ちは山々なのですが、正直なところ、一か月もかかるとは・・・ほんとに読み直したいのは、ヴィンデルバントのほかの著作であり、またリッケルトであるのですけどね。とくにこの本は、もうすでに何回か通読しているはずなんだけど、不思議と内容がまったく頭に残らないのだよなあ。まあそういう本こそ、こうやって読後の思いつきを書き連ねることが、有意味だったりするのですけどね。
さて本書は「ソクラテスに就いて」「スピノザを記念して」「ゲエテの哲学から」「ゲエテのファウストとルネッサンスの哲学と」の四篇を収めますが、やっぱりいい意味でも悪い意味でも興味深いのは、表題にもなっている「ソクラテスに就いて」かな。年が改まってから、このひとの小品ばかりを読んできましたが、やっとこのひとの弱点がどこにあるのかはっきり見えてきたというか、なんというか。冒頭の洗練された知識人としてのソフィストと、禿頭で鼻がやたらにでかい、冴えないアテネ人のソクラテス、という戯画的な図式にも笑っちゃいますけど(私は実はこういうのは、嫌いじゃなかったりする)、ソクラテスを論じさせてみると、そのひとの哲学像のおおよそも分かってしまうのだな、という印象で、ソクラテスってすごいひとなんだなあ、と、改めて変な感心のしかたをしてしまいました。いやべつに、「ソクラテスは、総ての個人的思想に妥当する一般的支配者、即ちそれに依って各人の見解が検討され整頓されるべき標準があるということを、天才的人格に相應しくはっきりと確信していた」(p20)だの、「この対話的哲学に於いて規範的立法が意識された」(p22)だの、今からすると強引にみえてしまう解釈も勝手にすればいいと思うし、ソクラテスにはそのくらいのこと笑って許すくらいの度量があったのでしょうけど、ソクラテスのいわば(ヴィンデルバントの表現によれば)「天才的人格」を論じさせると、残酷なくらい論者の度量がみえてしまう。問題にしたいのは次の一節。「ソクラテスは、個々の人が事物に對して懐く見解がどんなに異なっていようとも、誰でも承認しなければならない観念に、共同の研究によって到達することを欲した。[]個人の見解が偏って居り間違いがあるのは、大体に於いて、誰もが連想過程の心理的必然性によって已むを得ず自分の不十分な経験を一般化することから来ている。かくて、個人的で変化する観念に規範的概念を對立させるために、ソクラテスは談話をなして比較帰納をする方法を採った」(p23-4)。おいおい、ソクラテスが「比較帰納する方法」、つまり帰納法を採ったんかい、と思わず突っ込みたくなるような。うーん、やっぱり、心理学的なものと無時間的に妥当する価値や規範を峻別したヴィンデルバントの功績は、やはり認められねばならない(今日でもなお、両者の区別はあいまいにされることが多いのだから)のだろうけど、やっぱり両者をつなぐ方法論が、ヴィンデルバントにはどうしても欠けているように思えてしまうのです。帰納なんて、最悪の方法じゃないかな。まあ時代が時代だけに仕方がないのでしょうけど、でもやはりディアレクティケーという、ソクラテス以来の方法論に対する無理解は否定しようもないし、例えばカッシーラーなんか素晴らしく器用に、(主にあれはヘーゲルのですけど)弁証法の良質な部分だけを取り込んで自らの哲学に生かしているわけですが、このあたり、リッケルトだとどうなるのだっけなあ・・・まあそれよりなにより、これだけさんざん偉そうなことを言ってきたのだから、お前もお前なりのソクラテス像を示さんかい!と憤られているかたもおられるかもしれませんが、まあそれは、私も講演などする機会があったら、ということにしておいてください。
で、あとはいいですかね、適当で。どうもドイツ人のスピノザ論とゲーテ論って、苦手なんですよね、私は。「スピノザを記念して」については、「真理のために死ぬのは困難であるということが言われるが、併し真理のために生きることは一層困難である」(p73)という末尾の一文はナイス・フレーズなのかもしれないけど、でもスピノザの教説をスピノザの人格と生のかたちに落着させるヴィンデルバントの議論には、やや不満が残る。スピノザ没後二百年の講演という場の空気を読めば、そりゃいくらなんでも無理な注文なのかもしれないけど、でもやっぱり哲学のスタイルは異なるわけだから、ちゃんと正面から対決し、批判すべき点は批判してほしかったなあ、と。スピノザほどの大哲学者なら、それもひとつのリスペクトの示し方になりますからね。あとゲーテ論は・・・ほんとに私は、ドイツ人のゲーテ論って、虫酸が走るんです。ちょうど日本人の聖徳太子論と同じようなものだと思いますが、ゲーテは確実に実在する人物なので、その分タチが悪いとも言える。まあ、「そんなこと言いますけど、でもこのひと、シューベルトの才能を見抜けなかったんでしょ」なんて意地悪なことを呟きながら、なんとか我慢して読むのですけど。「ゲエテの哲学から」のほうは、ああ、なるほどね、という感じ。一見、ゲーテの思想とヴィンデルバントの哲学って折り合いが悪いように思うけど、でもたしかにここでヴィンデルバントがしているような光の当て方(とくに終盤の「不死」のはなしのあたり)をすれば、確かにゲーテと、少なくともヴィンデルバントの実践哲学との親近性は、確認することができる。「哲学者スピノザは情熱を理解することによって、芸術家ゲエテは情熱を描写することによって情熱に打勝つた。」(p89)なんて一文は、図式としては鮮やかと言うべきなのかもしれない。そして「ゲエテのフアウストとルネッサンスの哲学と」は、これは、ねえ。時計と羅針盤の発明にルネッサンスの革新性をみるルネッサンス観もいやになっちゃうし、それに「火薬という強大な武器は、故国で軍事上の事情と共に政治的・社会的状態をも改造し始めたばかりでなく、遠隔の国で土民の征服・隷属を容易ならしめたのである」(p122)なんて一文をみると、「道徳の原理に就いて」を紹介した記事で書いたことを考え合わせるなら、よっぽどこのひと、火器で土民を征服したかったんだなあ、と。いや、繰り返しになりますが、こういう政治的な見解によってそのひとの哲学までを否定するつもりは、私にはさらさらないですけど、でも、ほんとに優れた知性は、少なくともこういう卑俗な政治観によって足元をすくわれることはないと思うのだけどなあ・・・
とまあ、何とも煮え切らない感じで、ひとまず『プレルディエン』編は堂々の完結です。しかしまだヴィンデルバントは続きますので、ヴィンデルバントに、というより、私のよいしょの能力に失望したかたも、もうしばらくお付き合いくださいませ。
ヴィンデルバント著『ソクラテスに就いて 他三篇』河東涓訳、岩波文庫
ヴィンデルバントの主著『プレルディエン(序曲)』から、ソクラテス、スピノザ、ゲーテを論じた四編を選んで訳出した一冊です。それぞれ哲学史・精神史において独自の個性を発揮し、彼らの解釈に解釈者の思考の性格が現れるといっても過言ではない、三つの偉大なる人格を、ヴィンデルバント独自の価値哲学の観点から論じていきます。なおヴィンデルバントと『プレルディエン』に関しましては、「【文庫集成】ヴィンデルバント・その壱」という当ブログの記事や、そこで指示されている文献等をご参照ください。

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いやー、ようやく『プレルディエン』編もこれで完結ですか。感慨に浸りたい気持ちは山々なのですが、正直なところ、一か月もかかるとは・・・ほんとに読み直したいのは、ヴィンデルバントのほかの著作であり、またリッケルトであるのですけどね。とくにこの本は、もうすでに何回か通読しているはずなんだけど、不思議と内容がまったく頭に残らないのだよなあ。まあそういう本こそ、こうやって読後の思いつきを書き連ねることが、有意味だったりするのですけどね。
さて本書は「ソクラテスに就いて」「スピノザを記念して」「ゲエテの哲学から」「ゲエテのファウストとルネッサンスの哲学と」の四篇を収めますが、やっぱりいい意味でも悪い意味でも興味深いのは、表題にもなっている「ソクラテスに就いて」かな。年が改まってから、このひとの小品ばかりを読んできましたが、やっとこのひとの弱点がどこにあるのかはっきり見えてきたというか、なんというか。冒頭の洗練された知識人としてのソフィストと、禿頭で鼻がやたらにでかい、冴えないアテネ人のソクラテス、という戯画的な図式にも笑っちゃいますけど(私は実はこういうのは、嫌いじゃなかったりする)、ソクラテスを論じさせてみると、そのひとの哲学像のおおよそも分かってしまうのだな、という印象で、ソクラテスってすごいひとなんだなあ、と、改めて変な感心のしかたをしてしまいました。いやべつに、「ソクラテスは、総ての個人的思想に妥当する一般的支配者、即ちそれに依って各人の見解が検討され整頓されるべき標準があるということを、天才的人格に相應しくはっきりと確信していた」(p20)だの、「この対話的哲学に於いて規範的立法が意識された」(p22)だの、今からすると強引にみえてしまう解釈も勝手にすればいいと思うし、ソクラテスにはそのくらいのこと笑って許すくらいの度量があったのでしょうけど、ソクラテスのいわば(ヴィンデルバントの表現によれば)「天才的人格」を論じさせると、残酷なくらい論者の度量がみえてしまう。問題にしたいのは次の一節。「ソクラテスは、個々の人が事物に對して懐く見解がどんなに異なっていようとも、誰でも承認しなければならない観念に、共同の研究によって到達することを欲した。[]個人の見解が偏って居り間違いがあるのは、大体に於いて、誰もが連想過程の心理的必然性によって已むを得ず自分の不十分な経験を一般化することから来ている。かくて、個人的で変化する観念に規範的概念を對立させるために、ソクラテスは談話をなして比較帰納をする方法を採った」(p23-4)。おいおい、ソクラテスが「比較帰納する方法」、つまり帰納法を採ったんかい、と思わず突っ込みたくなるような。うーん、やっぱり、心理学的なものと無時間的に妥当する価値や規範を峻別したヴィンデルバントの功績は、やはり認められねばならない(今日でもなお、両者の区別はあいまいにされることが多いのだから)のだろうけど、やっぱり両者をつなぐ方法論が、ヴィンデルバントにはどうしても欠けているように思えてしまうのです。帰納なんて、最悪の方法じゃないかな。まあ時代が時代だけに仕方がないのでしょうけど、でもやはりディアレクティケーという、ソクラテス以来の方法論に対する無理解は否定しようもないし、例えばカッシーラーなんか素晴らしく器用に、(主にあれはヘーゲルのですけど)弁証法の良質な部分だけを取り込んで自らの哲学に生かしているわけですが、このあたり、リッケルトだとどうなるのだっけなあ・・・まあそれよりなにより、これだけさんざん偉そうなことを言ってきたのだから、お前もお前なりのソクラテス像を示さんかい!と憤られているかたもおられるかもしれませんが、まあそれは、私も講演などする機会があったら、ということにしておいてください。
で、あとはいいですかね、適当で。どうもドイツ人のスピノザ論とゲーテ論って、苦手なんですよね、私は。「スピノザを記念して」については、「真理のために死ぬのは困難であるということが言われるが、併し真理のために生きることは一層困難である」(p73)という末尾の一文はナイス・フレーズなのかもしれないけど、でもスピノザの教説をスピノザの人格と生のかたちに落着させるヴィンデルバントの議論には、やや不満が残る。スピノザ没後二百年の講演という場の空気を読めば、そりゃいくらなんでも無理な注文なのかもしれないけど、でもやっぱり哲学のスタイルは異なるわけだから、ちゃんと正面から対決し、批判すべき点は批判してほしかったなあ、と。スピノザほどの大哲学者なら、それもひとつのリスペクトの示し方になりますからね。あとゲーテ論は・・・ほんとに私は、ドイツ人のゲーテ論って、虫酸が走るんです。ちょうど日本人の聖徳太子論と同じようなものだと思いますが、ゲーテは確実に実在する人物なので、その分タチが悪いとも言える。まあ、「そんなこと言いますけど、でもこのひと、シューベルトの才能を見抜けなかったんでしょ」なんて意地悪なことを呟きながら、なんとか我慢して読むのですけど。「ゲエテの哲学から」のほうは、ああ、なるほどね、という感じ。一見、ゲーテの思想とヴィンデルバントの哲学って折り合いが悪いように思うけど、でもたしかにここでヴィンデルバントがしているような光の当て方(とくに終盤の「不死」のはなしのあたり)をすれば、確かにゲーテと、少なくともヴィンデルバントの実践哲学との親近性は、確認することができる。「哲学者スピノザは情熱を理解することによって、芸術家ゲエテは情熱を描写することによって情熱に打勝つた。」(p89)なんて一文は、図式としては鮮やかと言うべきなのかもしれない。そして「ゲエテのフアウストとルネッサンスの哲学と」は、これは、ねえ。時計と羅針盤の発明にルネッサンスの革新性をみるルネッサンス観もいやになっちゃうし、それに「火薬という強大な武器は、故国で軍事上の事情と共に政治的・社会的状態をも改造し始めたばかりでなく、遠隔の国で土民の征服・隷属を容易ならしめたのである」(p122)なんて一文をみると、「道徳の原理に就いて」を紹介した記事で書いたことを考え合わせるなら、よっぽどこのひと、火器で土民を征服したかったんだなあ、と。いや、繰り返しになりますが、こういう政治的な見解によってそのひとの哲学までを否定するつもりは、私にはさらさらないですけど、でも、ほんとに優れた知性は、少なくともこういう卑俗な政治観によって足元をすくわれることはないと思うのだけどなあ・・・
とまあ、何とも煮え切らない感じで、ひとまず『プレルディエン』編は堂々の完結です。しかしまだヴィンデルバントは続きますので、ヴィンデルバントに、というより、私のよいしょの能力に失望したかたも、もうしばらくお付き合いくださいませ。
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