<かげ>とイデア
マラソンだか耐久レースだかのようになってきた気がしますが、あの著作集の最新作、今月も紹介します。
『坂部 恵集3 共存・あわいのポエジー』岩波書店
優れた思想史家であるとともに、この国の内外で、独自な思想を展開した思想家として認知されている、坂部恵氏の著作集・第三巻です。これまでの二巻は、坂部氏の西洋思想との対話から生み出された作品が収められていましたが、本巻では柔らかい大和ことばで紡ぎ出される、坂部氏独自の思想を伝える論考が十五本収められています。主題となるのは、あるいはその裏に超越的な主体としての「素顔」を想定しない、他者とのかかわりにおいてのみある「仮面」であり、あるいは自己と他者、生と死、遥かな過去と現在が「ふれ」あう、その「あわい」であります。
私は恥ずかしながら、これまで洋学者としての坂部先生が書いたものしか読んでおらず、この巻の土台になった『仮面の解釈学』や『「ふれる」ことの哲学』など、思想家としての坂部先生の著作(両者ははっきり分けられるものではないですけど)は、読んでいませんでした。カント研究から西洋精神史研究へ、そしてこの巻での「仮面」や「ふれる」、「あわい」などの考察へと、この著作集は巻が進むにつれ、坂部先生の「仮面」を外した語りに近づいていく、という構成になっているようです。なので、「カントとかライプニッツとかはどうでもいいから、坂部恵ってどういうひとなのか知りたい」というひとは、この巻から読みはじめるのがいいと思います。
ただ私としては、著作集が進むに従って、坂部先生との隔たりがどんどん自覚されていく結果に・・・はじめは「こうなりたいけど、とてもなれそうもないよね」というものだったのが、「こうなるのも、うーん、どうなんだろう・・・」といったところまで来てしまったようです。いや、美しいし、博識だし、公平だし、尊敬に値する要素はいくつも兼ね備えていて、実際敬意も持っているのですが、ただこれは哲学なのかと、立ち止まって考えさせられることが、この巻に所収の論考に関しては、何度もありました。例えば本書二本目の、「<かげ>についての素描」では、プラトン『国家』篇の有名な「洞窟の比喩」を下敷きに、プラトンによっては仮象として貶められる、松明によって洞窟に反映する<かげ>、あるいは日の光によって水中に反映する<かげ>に固有の魅力の再評価から、坂部先生は「プラトンにはじまる西洋形而上学の歴史」を相対化します。坂部先生より上手くは書けないので、そのまま引いてしまうと、「地上からふたたび洞窟におりたかつてのとらわれびとが、暗がりに目がなれるにつれて、洞窟の壁画にかがり火にゆれ動くもろもろの事物の影に目をこらしたとき、かつて太陽へと「突如として」目を向けかえたときに彼をおそったとおなじようなおどろきにみちた感動、彼の現実感覚を根底からゆり動かすようなおどろきの情が、もう一度彼をおそう場面を想像してみることが、プラトンにはたえてなかったのだろうか」(p29)となるわけです。この視点を導き出す感受性には感嘆しますし、正直私はまったくかないません。ただ、太陽に対するおどろきと、影に対するおどろき、この両者が「質的な差というよりも程度の差」とされるとき、そこに詩は生じても、果たして哲学は生まれるのか。また「<ゆめ>の世界は<うつつ>の世界の<かげ>であるのか、それとも、反対に<うつつ>の世界こそ<ゆめ>の世界の<かげ>にすぎないのか。すでにみたように、この問いにたいして一義的な答えは存在しない。」(p45)というのが、ほぼこの「<かげ>についての素描」の結論に当たると思われる箇所で、この結論自体に正面から異を唱えるつもりはないし、それどころか、我々の経験や現実の深部を、確かに言い当てていると思います。しかし、現実がそのようなものであるとしても、そこに身を任せることから、哲学は、思想は、あるいは文化は生まれるのか。あくまで酔生夢死することなく、覚めてあろうとするところ、あるいは浅き夢に身をゆだねることや酔いしれることを拒み、有為の奥山を越えていこうとするところでしか、哲学的な思想は可能ではないのではないか。などなど・・・
もちろん「イデア―<かげ>」の図式を退ける坂部先生の思想においても、あらゆる<かげ>に価値をみとめるのではなく、真正なるものとそうでないものとの分別の機能は作用しています。たとえばいま『愛ルケ』で再度ブレークしている渡辺淳一の『失楽園』を、「ポルノグラフィ的なサービスをふんだんにちりばめた」、トリスタンとイゾルデの「パロディ」と断ずる箇所(「生と死のあわい」)、また<もの>の本源的な意味契機に対して、生活の能率化、簡便化に汚染された近代以降における、「物質」としての<ぶつ>に対する認定である、「戯画」(「ことば・もの・こころ」)など。でもこれは、必要以上に敵を貶めており、フェアではないのではないかなあ。まあこれも揚げ足取りにすぎないのですけど。あまり批判的に書きすぎた気がするので、最後に申し訳程度に、本巻所収のもののうち、私が好きな論考を挙げると、「自在・ふるまい・かなしみ」と、「受難楽の沈黙」です。後者はキルケゴールのモーツアルト受容から、近代の行きつく果ての袋小路を描き出すものなのですが、これは『モデルニテ・バロック』の最初の論考と同じ構図です。この『モデルニテ・バロック』の最初の論考(「神童論または「モーツアルトの名前」」)は読んだとき鳥肌が立った覚えがあります(これは著作集に入らないのかなあ)が、「受難楽の沈黙」はそこまでのインパクトはもたないものの、あいだにファウスト伝説の変容の話題を挟むことで、音楽の素養がない私のような読者にも、分かりやすいものになっています。
ちょっと肌合いの違うものを、もう一冊。
田中美知太郎 『哲学初歩』岩波現代文庫
今日においても、日本のギリシア哲学研究の代表的な人物である田中美知太郎氏による、哲学入門書です。1950年に岩波全書として出版されたものが、この一月文庫化されました。「哲学とは何か」「哲学は生活の上に何の意味を持っているか」「哲学は学ぶことができるか」「哲学の究極において求められているもの」という四つの根本的な問いを、適宜プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲルなど西洋哲学の源流となった思想家の思想を参照しつつ、検討していきます。ありきたりな哲学の通説書には満足できない読者にお勧めの、哲学の根源に迫る一冊です。
田中美知太郎にはこれまで、私はあまりいいイメージを持っていませんでした。世界の名著の「付録」の写真で見た筆者の容貌に圧倒された(弟子筋にあたると思われる藤沢令夫は、ハリウッド俳優みたいな二枚目だった覚えがあるので、よけいに印象的だった)うえ、新プラトン派の巻の解説のところで、すべての哲学には「言語道断の真骨頂」みたいなものがあるとか書いているのを読んで、「ああ、こういうひとは苦手だ・・・」と思い、敬遠してきたのでした。しかし去年聞いたある発表を機に、ちょっと見方が変わってきて、何か読んでみたいと思うようになり、そうはいってもいきなり『ロゴスとイデア』にいく勇気はなかったので、この書を手にしたのでした。
で、本書の印象ですが、坂部先生のものを読んだあとだからなのかもしれませんが、僕は好きだなあ、こういう哲学観。廣川洋一氏が解説で明らかにしているしているように、この書の構成は「プロトレプティコス(「すすめ」「すすめのことば」の意)」というジャンルで書かれたプラトンの初期対話篇『エウテュデモス』の内容と、田中の青年期(といっても三十六歳ですが)の論文「プロトレプティコス」における『エウテュデモス』の内容分析に基づいているのですが、それが単に受け売りではなくで、田中自身の思考のフィルターを通じて濾過され、またしっかり内面化されており、哲学の根源そのものにせまる、かなり「熱い」哲学入門書になっています。結局どの問いも、あるいは真善美なるものへのエロースと知性による節制のあいだ、またあるいはこの世界を見捨てて自足しようとする哲学の傾向と、なおそれを生活へと結び付けようとする努力のあいだ、あるいは哲学において求められる「いかにいくべきか」という主体的な智と、それをロゴス化し客体化する努力のあいだといった、解きがたいアポリアへと読者を導き、はっきりとした答えは提示されることがないのですが、これは哲学的に思考するものが引き受けねばならない困難であり、ここからしか哲学は生まれないとも私は思います。田中は基本的に哲人主の発想は受け入れているようで、ポッパーの主張がかなり広まっている現在からみると、危ないことをいっているように見受けられるところもあるのですが、でもやはりそういう危うさを経ないと出てこない魅力もあるわけです。論証の過程は省いて、結論だけお伝えすると、「ソクラテスのうちにも、デカルトのうちにも、カントのうちにも、その節度の外に出てゆかねばならないような、何らかの動向が見られるのではないか。すなわち愛智のうちには、突進と抑制とがあると言わなければならない。その限りにおいて、哲学というものは、決して安定した概念ではないのである。(中略)しかしまたそこに、哲学の生命が認められるのかもしれない」(p53)とか、「哲学的真理は、そのためにわたしたちが、生き、かつ死なねばならぬものを持っている。哲学はわたしたち自身と共にあって、これを引き離すことはできない」(p171)だとか、「多少極端な言い方をするのを許してもらえるならば、具体的にはわたしたちの幸福というような形で考えられるところの、何かよりよいものについて、何らかの真面目な関心を示していないような哲学は、哲学者や哲学書の名前に関して、どれほどの博識ぶりを示そうとも、それはにせ哲学に過ぎないのである。それはわたしたちの生活に少しも根ざすところのない、単なる饒舌であって、哲学の役をしているとは思われないからである」(p183-4)といったことになり、これらは言い古されたことがらではありますけど、田中の粘り強い思索に支えられているだけに、お説教くさい印象も浮ついた印象もまったくなく、かえって新鮮で爽やかな印象さえ受けます。そして私は、田中の言っていることが根本的には正しいと思っているだけに、再度自らに戒めなければならないと思っております。
かなりタイプが異なり、どちらも好き嫌いが分かれる哲学書だと思いますが、一線の学者の手になるものだけに、どちらも読者に深く考えさせるだけの力をもっています。みなさまの関心に応じて、ぜひどうぞ。


『坂部 恵集3 共存・あわいのポエジー』岩波書店
優れた思想史家であるとともに、この国の内外で、独自な思想を展開した思想家として認知されている、坂部恵氏の著作集・第三巻です。これまでの二巻は、坂部氏の西洋思想との対話から生み出された作品が収められていましたが、本巻では柔らかい大和ことばで紡ぎ出される、坂部氏独自の思想を伝える論考が十五本収められています。主題となるのは、あるいはその裏に超越的な主体としての「素顔」を想定しない、他者とのかかわりにおいてのみある「仮面」であり、あるいは自己と他者、生と死、遥かな過去と現在が「ふれ」あう、その「あわい」であります。
私は恥ずかしながら、これまで洋学者としての坂部先生が書いたものしか読んでおらず、この巻の土台になった『仮面の解釈学』や『「ふれる」ことの哲学』など、思想家としての坂部先生の著作(両者ははっきり分けられるものではないですけど)は、読んでいませんでした。カント研究から西洋精神史研究へ、そしてこの巻での「仮面」や「ふれる」、「あわい」などの考察へと、この著作集は巻が進むにつれ、坂部先生の「仮面」を外した語りに近づいていく、という構成になっているようです。なので、「カントとかライプニッツとかはどうでもいいから、坂部恵ってどういうひとなのか知りたい」というひとは、この巻から読みはじめるのがいいと思います。
ただ私としては、著作集が進むに従って、坂部先生との隔たりがどんどん自覚されていく結果に・・・はじめは「こうなりたいけど、とてもなれそうもないよね」というものだったのが、「こうなるのも、うーん、どうなんだろう・・・」といったところまで来てしまったようです。いや、美しいし、博識だし、公平だし、尊敬に値する要素はいくつも兼ね備えていて、実際敬意も持っているのですが、ただこれは哲学なのかと、立ち止まって考えさせられることが、この巻に所収の論考に関しては、何度もありました。例えば本書二本目の、「<かげ>についての素描」では、プラトン『国家』篇の有名な「洞窟の比喩」を下敷きに、プラトンによっては仮象として貶められる、松明によって洞窟に反映する<かげ>、あるいは日の光によって水中に反映する<かげ>に固有の魅力の再評価から、坂部先生は「プラトンにはじまる西洋形而上学の歴史」を相対化します。坂部先生より上手くは書けないので、そのまま引いてしまうと、「地上からふたたび洞窟におりたかつてのとらわれびとが、暗がりに目がなれるにつれて、洞窟の壁画にかがり火にゆれ動くもろもろの事物の影に目をこらしたとき、かつて太陽へと「突如として」目を向けかえたときに彼をおそったとおなじようなおどろきにみちた感動、彼の現実感覚を根底からゆり動かすようなおどろきの情が、もう一度彼をおそう場面を想像してみることが、プラトンにはたえてなかったのだろうか」(p29)となるわけです。この視点を導き出す感受性には感嘆しますし、正直私はまったくかないません。ただ、太陽に対するおどろきと、影に対するおどろき、この両者が「質的な差というよりも程度の差」とされるとき、そこに詩は生じても、果たして哲学は生まれるのか。また「<ゆめ>の世界は<うつつ>の世界の<かげ>であるのか、それとも、反対に<うつつ>の世界こそ<ゆめ>の世界の<かげ>にすぎないのか。すでにみたように、この問いにたいして一義的な答えは存在しない。」(p45)というのが、ほぼこの「<かげ>についての素描」の結論に当たると思われる箇所で、この結論自体に正面から異を唱えるつもりはないし、それどころか、我々の経験や現実の深部を、確かに言い当てていると思います。しかし、現実がそのようなものであるとしても、そこに身を任せることから、哲学は、思想は、あるいは文化は生まれるのか。あくまで酔生夢死することなく、覚めてあろうとするところ、あるいは浅き夢に身をゆだねることや酔いしれることを拒み、有為の奥山を越えていこうとするところでしか、哲学的な思想は可能ではないのではないか。などなど・・・
もちろん「イデア―<かげ>」の図式を退ける坂部先生の思想においても、あらゆる<かげ>に価値をみとめるのではなく、真正なるものとそうでないものとの分別の機能は作用しています。たとえばいま『愛ルケ』で再度ブレークしている渡辺淳一の『失楽園』を、「ポルノグラフィ的なサービスをふんだんにちりばめた」、トリスタンとイゾルデの「パロディ」と断ずる箇所(「生と死のあわい」)、また<もの>の本源的な意味契機に対して、生活の能率化、簡便化に汚染された近代以降における、「物質」としての<ぶつ>に対する認定である、「戯画」(「ことば・もの・こころ」)など。でもこれは、必要以上に敵を貶めており、フェアではないのではないかなあ。まあこれも揚げ足取りにすぎないのですけど。あまり批判的に書きすぎた気がするので、最後に申し訳程度に、本巻所収のもののうち、私が好きな論考を挙げると、「自在・ふるまい・かなしみ」と、「受難楽の沈黙」です。後者はキルケゴールのモーツアルト受容から、近代の行きつく果ての袋小路を描き出すものなのですが、これは『モデルニテ・バロック』の最初の論考と同じ構図です。この『モデルニテ・バロック』の最初の論考(「神童論または「モーツアルトの名前」」)は読んだとき鳥肌が立った覚えがあります(これは著作集に入らないのかなあ)が、「受難楽の沈黙」はそこまでのインパクトはもたないものの、あいだにファウスト伝説の変容の話題を挟むことで、音楽の素養がない私のような読者にも、分かりやすいものになっています。
ちょっと肌合いの違うものを、もう一冊。
田中美知太郎 『哲学初歩』岩波現代文庫
今日においても、日本のギリシア哲学研究の代表的な人物である田中美知太郎氏による、哲学入門書です。1950年に岩波全書として出版されたものが、この一月文庫化されました。「哲学とは何か」「哲学は生活の上に何の意味を持っているか」「哲学は学ぶことができるか」「哲学の究極において求められているもの」という四つの根本的な問いを、適宜プラトン、アリストテレス、デカルト、カント、ヘーゲルなど西洋哲学の源流となった思想家の思想を参照しつつ、検討していきます。ありきたりな哲学の通説書には満足できない読者にお勧めの、哲学の根源に迫る一冊です。
田中美知太郎にはこれまで、私はあまりいいイメージを持っていませんでした。世界の名著の「付録」の写真で見た筆者の容貌に圧倒された(弟子筋にあたると思われる藤沢令夫は、ハリウッド俳優みたいな二枚目だった覚えがあるので、よけいに印象的だった)うえ、新プラトン派の巻の解説のところで、すべての哲学には「言語道断の真骨頂」みたいなものがあるとか書いているのを読んで、「ああ、こういうひとは苦手だ・・・」と思い、敬遠してきたのでした。しかし去年聞いたある発表を機に、ちょっと見方が変わってきて、何か読んでみたいと思うようになり、そうはいってもいきなり『ロゴスとイデア』にいく勇気はなかったので、この書を手にしたのでした。
で、本書の印象ですが、坂部先生のものを読んだあとだからなのかもしれませんが、僕は好きだなあ、こういう哲学観。廣川洋一氏が解説で明らかにしているしているように、この書の構成は「プロトレプティコス(「すすめ」「すすめのことば」の意)」というジャンルで書かれたプラトンの初期対話篇『エウテュデモス』の内容と、田中の青年期(といっても三十六歳ですが)の論文「プロトレプティコス」における『エウテュデモス』の内容分析に基づいているのですが、それが単に受け売りではなくで、田中自身の思考のフィルターを通じて濾過され、またしっかり内面化されており、哲学の根源そのものにせまる、かなり「熱い」哲学入門書になっています。結局どの問いも、あるいは真善美なるものへのエロースと知性による節制のあいだ、またあるいはこの世界を見捨てて自足しようとする哲学の傾向と、なおそれを生活へと結び付けようとする努力のあいだ、あるいは哲学において求められる「いかにいくべきか」という主体的な智と、それをロゴス化し客体化する努力のあいだといった、解きがたいアポリアへと読者を導き、はっきりとした答えは提示されることがないのですが、これは哲学的に思考するものが引き受けねばならない困難であり、ここからしか哲学は生まれないとも私は思います。田中は基本的に哲人主の発想は受け入れているようで、ポッパーの主張がかなり広まっている現在からみると、危ないことをいっているように見受けられるところもあるのですが、でもやはりそういう危うさを経ないと出てこない魅力もあるわけです。論証の過程は省いて、結論だけお伝えすると、「ソクラテスのうちにも、デカルトのうちにも、カントのうちにも、その節度の外に出てゆかねばならないような、何らかの動向が見られるのではないか。すなわち愛智のうちには、突進と抑制とがあると言わなければならない。その限りにおいて、哲学というものは、決して安定した概念ではないのである。(中略)しかしまたそこに、哲学の生命が認められるのかもしれない」(p53)とか、「哲学的真理は、そのためにわたしたちが、生き、かつ死なねばならぬものを持っている。哲学はわたしたち自身と共にあって、これを引き離すことはできない」(p171)だとか、「多少極端な言い方をするのを許してもらえるならば、具体的にはわたしたちの幸福というような形で考えられるところの、何かよりよいものについて、何らかの真面目な関心を示していないような哲学は、哲学者や哲学書の名前に関して、どれほどの博識ぶりを示そうとも、それはにせ哲学に過ぎないのである。それはわたしたちの生活に少しも根ざすところのない、単なる饒舌であって、哲学の役をしているとは思われないからである」(p183-4)といったことになり、これらは言い古されたことがらではありますけど、田中の粘り強い思索に支えられているだけに、お説教くさい印象も浮ついた印象もまったくなく、かえって新鮮で爽やかな印象さえ受けます。そして私は、田中の言っていることが根本的には正しいと思っているだけに、再度自らに戒めなければならないと思っております。
かなりタイプが異なり、どちらも好き嫌いが分かれる哲学書だと思いますが、一線の学者の手になるものだけに、どちらも読者に深く考えさせるだけの力をもっています。みなさまの関心に応じて、ぜひどうぞ。


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