夏の終わりと英文学者の憂鬱
今年の夏もいよいよ終わりがみえてきたようですね。私はこの夏、ずっと軽いノイローゼー状態だったのですが、それにもようやく快方のきざしがみえてきました(たぶん)。いろいろ失ったものも多かったですが、学んだことも多々ありました。ご心配やご迷惑をおかけしたかたがたには、心よりお詫び申し上げます。今回はまず、夏の終わりにふさわしい一冊から。
吉田健一『シェークスピア/シェークスピア詩集(吉田健一訳)』平凡社ライブラリー
吉田茂の長男で、ヨーロッパ文学の素養・造詣の深い不世出の英文学者であった吉田健一氏の没後三十年にあたり、この夏出版された一冊です。シェークスピア劇の時代背景の説明にはじまり、『ロメオとジュリエット』から『嵐』に至るシェークスピア劇の世界に、独自の視点から読者を誘う『シャークスピア』と、筆者が愛してやまなかったシェークスピアの十四行詩の名訳(抄訳でもありますけど)『シェークスピア詩集』が一冊になった、お買い得の一冊です。
「沙翁は論じたりせず、ただうまいとでもいっておくしかない」とかいうようなことをいったのは、漱石でしたっけ?ともかく、シェークスピアってそんな作家だと思っていたので、べつにこの本も読む必然性はなかったのですが、帯の「不世出の文学者・吉田健一没後30年 名著2つを初めて1冊に!」という文句に引かれて買ってしまいました。それにしても、ときのひとである麻生太郎は、筆者の甥っ子にあたるのですかね?まあ、そういわれても納得できるような、できないような・・・
さて、本書ですが、うーん、まあ読んでも損することはない一冊だとは思います。『シェークスピア』のほうは、私はシェークスピアは体系的に読んでいるわけではないし(もちろん四大悲劇くらいは読んでますよ)、とくに熱をあげているわけでもない、むしろ『マクベス』や『リア王』より『蜘蛛巣城』や『乱』の方が印象に残っていたりする凡庸な読者なので、ちょっと宝の持ち腐れってところはあるのかもしれませんけど。まあでも、緻密で学問的な分析というよりは、筆者の洞察が結晶した一節みたいなものが、どの作品の解説にも埋め込まれていて、それを読むだけでも「なるほどね」と思わせてくれます。例えば『ロメオとジュリエット』であれば「烈しい時代に生きていることが、いつ死ぬか解らないことを感じさせるだけではなくて、烈しく生きていることそのものが、人々に死に就いて考えさせた」ということに、例のフォルスタフについては「フォルスタフが死ねば、誰も顧みるものはない。その瞬間に彼の生命は、万人に受け継がれたからである。」ということになり、あとは例えばハムレットなら考える人間の孤独、リア王なら悪の問題とそれに対する人間の倫理的抗議、ということになるのですが、一番の傑作は『オセロ』における、オセロとデスデモナのいざこざの展開の早さについての一節ですかね。「何故なら、ここでも速度が大切だからである。夫が妻の貞操を疑ったり、或は妻が夫を疑ったりして、その煩悶に明け暮れしているのは、これも悲劇の材料にはならない。そして若し生活の基礎が崩れ去って、それもなほ生きて行くのが現実といふもののあり方であるとすれば、そのことから人生は劇になり損なったものの連続であるといふことが考へられる」(p143)。人生とは劇になり損なったものの連続である・・・ある意味当たり前で平凡な真実ではありますけど、まあこんな一節を書く機会は、私にはないでしょうからね。
さて『シェークスピア』のほうはこのくらいにして、『詩集』のほうへ。この『詩集』はもともと一五四篇のソネットよりなる、シェークスピア自身が複雑な三角関係にあった男女(説明するのは難しいので、気になる方はご自分でご確認ください)にあてたものなのですが、そのうちの四三篇が翻訳されています。なかでも以下に引く第十八番の冒頭が傑作であることは、衆目の一致するところでしょう。「君を夏の一日に喩へようか。/君は更に美しくて、更に優しい。/心ない風は五月の蕾を散らし、/又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか」。うーん、これだけ取り出すとそんなじゃないかもしれないですけど、本書には繰り返しこの一節が出てくるので、そうやって何度もみてると、なんかすさまじい傑作にみえてきます。この季節にぴったりですしね。ただ、私は夏はやっぱり苦手で、「夏の期限が余りにも長すぎる・・・」とか思ってしまう人間ですし、それにこの詩、実は男性にあてたものなのです。まあそういう恋愛のかたちはいまも昔もあるわけだから、べつにいいのですけど、ただ私は残念ながら(?)そっちの気はないので、ちょっとそれを聞くと覚めてしまうところも・・・なんか文学の読み方を間違っていますよね、私は。
もう一冊、英文学者といえばやはりこのひとということで。
石原千秋『漱石と三人の読者』講談社現代新書
漱石研究がご専門で、受験国語に関して発言するなど様々な分野でご活躍の石原千秋氏による、漱石の入門書です。漱石身辺の身近な読者、当時の『朝日新聞』購買層を中心とする漱石から想定できた読者、そして漱石の想定を超える読者層、という三層の読者層との関係における漱石の実験とたくらみに焦点を当てつつ、漱石を取り囲む時代や文化とその作品を縦横に論じます。
石原さんは2005年11月の「投げやりな日本の私」という記事以来、二度目のご登場になりますかね。まあ英文学者つながりということで、漱石関係のものを読んでおけば記事が一本書けるだろう、というのもあったのですが、やはり先日紹介した亀山さんの『悪霊』論を読み、素人の読みには限界があるわな、と思い、自ら「テクスト論者」と名乗る石原氏の漱石論に手が伸びたのでした。
どうでもいい話題から入ると、本書の最後には石原氏の手になる(使い回しですけど)「全小説のあらすじ」が収められています。さすがに漱石は、ほぼすべての作品のあらすじが頭に入っているので(『幻影の盾』とか『カーライル博物館』とかの、初期のやつだけはあやしいですけど)、あらすじなど真面目に読む気はないのですが、面白いのは『夢十夜』のあらすじ。こんなのあらすじの示しようがないだろうと思うのですが、くそ真面目に一夜一夜あらすじが書かれています。ただ最後には力尽きたのか、「第十夜」のあらすじは傑作。「女が庄太郎に絶壁から飛び込まなければ豚に舐められますと言う。豚を次々とステッキでたたいたが、ついに舐められて気絶した。庄太郎は助かるまい。パナマ帽は健さんのものだろう。」って、最後の二文は、あらすじでもなんでもなくて、作品そのまんまじゃないですか。まあでも、この一節がないと、確かに「第十夜」は締まった感じがしないのですけど、これはあらすじではないでしょう。
さて本書ですが、ちょっと前半の文学者らしく時代背景や漱石の略歴などを解説している部分は退屈かな。石原氏自身、漱石の人物像なんぞに関心のない、テクスト論者だと豪語しておられるかたなのだから、おんなことに手を出さなくていいのに、というのが正直なところです。ただやはりテクスト論者の本領が発揮される後半の作品論は、面白い。「エゴイズムはいけません」というメッセージのほか、「教師」を尊敬することで成長する物語の構造のゆえに『こころ』は学校教育の格好の題材となった、とかいう以前の記事でも触れた論点は、ちょっとうがちすぎだと思いますけど、おもしろいのは『虞美人草』の失敗と、漱石の手法の変化という問題。漱石の思惑とは裏腹に、女主人公の藤尾は当時たいへんな人気になってしまったそうで、勧善懲悪で藤尾を滅ぼすという作品の意図と、作品の魅力とが矛盾するという結果になってしまったそうなのですが、これは現代からしても『虞美人草』を読めば感じることなのですよね。そしてこの失敗は登場人物の甲野に小説を預けてしまい、読者の自由な読みの余地を与えなかったことによるものであるため、以後漱石は意図的に主人公の男に死角を作るようになる、というのが論旨なのですが、まあなるほどね、という感じです。確かに『虞美人草』って、なんか他の作品と比べると、読んでて息苦しい感じはするのですよね。そしてなにより、読み方を完全にひっくりかえされたのは、『三四郎』の読み。問題はただひとつ、大学構内の池で三四郎と美禰子の出会いの場面なのですが、ここにひとつトリックが隠されていて、これに気づくか気づかないかで、全体の読み方ががらりと変わってしまうのです。いやー、私は全然読めていなかったなあ。まさか美禰子が読者の死角で、あんなことやこんなことを・・・気になる方は本書をお読みください。
かなりタイプは違いますけど、いずれもテクストの読みを豊かにしてくれる一冊です。読書の秋もそこまできてますので、ぜひどうぞ。
吉田健一『シェークスピア/シェークスピア詩集(吉田健一訳)』平凡社ライブラリー
吉田茂の長男で、ヨーロッパ文学の素養・造詣の深い不世出の英文学者であった吉田健一氏の没後三十年にあたり、この夏出版された一冊です。シェークスピア劇の時代背景の説明にはじまり、『ロメオとジュリエット』から『嵐』に至るシェークスピア劇の世界に、独自の視点から読者を誘う『シャークスピア』と、筆者が愛してやまなかったシェークスピアの十四行詩の名訳(抄訳でもありますけど)『シェークスピア詩集』が一冊になった、お買い得の一冊です。
「沙翁は論じたりせず、ただうまいとでもいっておくしかない」とかいうようなことをいったのは、漱石でしたっけ?ともかく、シェークスピアってそんな作家だと思っていたので、べつにこの本も読む必然性はなかったのですが、帯の「不世出の文学者・吉田健一没後30年 名著2つを初めて1冊に!」という文句に引かれて買ってしまいました。それにしても、ときのひとである麻生太郎は、筆者の甥っ子にあたるのですかね?まあ、そういわれても納得できるような、できないような・・・
さて、本書ですが、うーん、まあ読んでも損することはない一冊だとは思います。『シェークスピア』のほうは、私はシェークスピアは体系的に読んでいるわけではないし(もちろん四大悲劇くらいは読んでますよ)、とくに熱をあげているわけでもない、むしろ『マクベス』や『リア王』より『蜘蛛巣城』や『乱』の方が印象に残っていたりする凡庸な読者なので、ちょっと宝の持ち腐れってところはあるのかもしれませんけど。まあでも、緻密で学問的な分析というよりは、筆者の洞察が結晶した一節みたいなものが、どの作品の解説にも埋め込まれていて、それを読むだけでも「なるほどね」と思わせてくれます。例えば『ロメオとジュリエット』であれば「烈しい時代に生きていることが、いつ死ぬか解らないことを感じさせるだけではなくて、烈しく生きていることそのものが、人々に死に就いて考えさせた」ということに、例のフォルスタフについては「フォルスタフが死ねば、誰も顧みるものはない。その瞬間に彼の生命は、万人に受け継がれたからである。」ということになり、あとは例えばハムレットなら考える人間の孤独、リア王なら悪の問題とそれに対する人間の倫理的抗議、ということになるのですが、一番の傑作は『オセロ』における、オセロとデスデモナのいざこざの展開の早さについての一節ですかね。「何故なら、ここでも速度が大切だからである。夫が妻の貞操を疑ったり、或は妻が夫を疑ったりして、その煩悶に明け暮れしているのは、これも悲劇の材料にはならない。そして若し生活の基礎が崩れ去って、それもなほ生きて行くのが現実といふもののあり方であるとすれば、そのことから人生は劇になり損なったものの連続であるといふことが考へられる」(p143)。人生とは劇になり損なったものの連続である・・・ある意味当たり前で平凡な真実ではありますけど、まあこんな一節を書く機会は、私にはないでしょうからね。
さて『シェークスピア』のほうはこのくらいにして、『詩集』のほうへ。この『詩集』はもともと一五四篇のソネットよりなる、シェークスピア自身が複雑な三角関係にあった男女(説明するのは難しいので、気になる方はご自分でご確認ください)にあてたものなのですが、そのうちの四三篇が翻訳されています。なかでも以下に引く第十八番の冒頭が傑作であることは、衆目の一致するところでしょう。「君を夏の一日に喩へようか。/君は更に美しくて、更に優しい。/心ない風は五月の蕾を散らし、/又、夏の期限が余りにも短いのを何とすればいいのか」。うーん、これだけ取り出すとそんなじゃないかもしれないですけど、本書には繰り返しこの一節が出てくるので、そうやって何度もみてると、なんかすさまじい傑作にみえてきます。この季節にぴったりですしね。ただ、私は夏はやっぱり苦手で、「夏の期限が余りにも長すぎる・・・」とか思ってしまう人間ですし、それにこの詩、実は男性にあてたものなのです。まあそういう恋愛のかたちはいまも昔もあるわけだから、べつにいいのですけど、ただ私は残念ながら(?)そっちの気はないので、ちょっとそれを聞くと覚めてしまうところも・・・なんか文学の読み方を間違っていますよね、私は。
もう一冊、英文学者といえばやはりこのひとということで。
石原千秋『漱石と三人の読者』講談社現代新書
漱石研究がご専門で、受験国語に関して発言するなど様々な分野でご活躍の石原千秋氏による、漱石の入門書です。漱石身辺の身近な読者、当時の『朝日新聞』購買層を中心とする漱石から想定できた読者、そして漱石の想定を超える読者層、という三層の読者層との関係における漱石の実験とたくらみに焦点を当てつつ、漱石を取り囲む時代や文化とその作品を縦横に論じます。
石原さんは2005年11月の「投げやりな日本の私」という記事以来、二度目のご登場になりますかね。まあ英文学者つながりということで、漱石関係のものを読んでおけば記事が一本書けるだろう、というのもあったのですが、やはり先日紹介した亀山さんの『悪霊』論を読み、素人の読みには限界があるわな、と思い、自ら「テクスト論者」と名乗る石原氏の漱石論に手が伸びたのでした。
どうでもいい話題から入ると、本書の最後には石原氏の手になる(使い回しですけど)「全小説のあらすじ」が収められています。さすがに漱石は、ほぼすべての作品のあらすじが頭に入っているので(『幻影の盾』とか『カーライル博物館』とかの、初期のやつだけはあやしいですけど)、あらすじなど真面目に読む気はないのですが、面白いのは『夢十夜』のあらすじ。こんなのあらすじの示しようがないだろうと思うのですが、くそ真面目に一夜一夜あらすじが書かれています。ただ最後には力尽きたのか、「第十夜」のあらすじは傑作。「女が庄太郎に絶壁から飛び込まなければ豚に舐められますと言う。豚を次々とステッキでたたいたが、ついに舐められて気絶した。庄太郎は助かるまい。パナマ帽は健さんのものだろう。」って、最後の二文は、あらすじでもなんでもなくて、作品そのまんまじゃないですか。まあでも、この一節がないと、確かに「第十夜」は締まった感じがしないのですけど、これはあらすじではないでしょう。
さて本書ですが、ちょっと前半の文学者らしく時代背景や漱石の略歴などを解説している部分は退屈かな。石原氏自身、漱石の人物像なんぞに関心のない、テクスト論者だと豪語しておられるかたなのだから、おんなことに手を出さなくていいのに、というのが正直なところです。ただやはりテクスト論者の本領が発揮される後半の作品論は、面白い。「エゴイズムはいけません」というメッセージのほか、「教師」を尊敬することで成長する物語の構造のゆえに『こころ』は学校教育の格好の題材となった、とかいう以前の記事でも触れた論点は、ちょっとうがちすぎだと思いますけど、おもしろいのは『虞美人草』の失敗と、漱石の手法の変化という問題。漱石の思惑とは裏腹に、女主人公の藤尾は当時たいへんな人気になってしまったそうで、勧善懲悪で藤尾を滅ぼすという作品の意図と、作品の魅力とが矛盾するという結果になってしまったそうなのですが、これは現代からしても『虞美人草』を読めば感じることなのですよね。そしてこの失敗は登場人物の甲野に小説を預けてしまい、読者の自由な読みの余地を与えなかったことによるものであるため、以後漱石は意図的に主人公の男に死角を作るようになる、というのが論旨なのですが、まあなるほどね、という感じです。確かに『虞美人草』って、なんか他の作品と比べると、読んでて息苦しい感じはするのですよね。そしてなにより、読み方を完全にひっくりかえされたのは、『三四郎』の読み。問題はただひとつ、大学構内の池で三四郎と美禰子の出会いの場面なのですが、ここにひとつトリックが隠されていて、これに気づくか気づかないかで、全体の読み方ががらりと変わってしまうのです。いやー、私は全然読めていなかったなあ。まさか美禰子が読者の死角で、あんなことやこんなことを・・・気になる方は本書をお読みください。
かなりタイプは違いますけど、いずれもテクストの読みを豊かにしてくれる一冊です。読書の秋もそこまできてますので、ぜひどうぞ。
近代日本の原像
もう慣れて冷静になってきたので、ご心配は無用なのですが、相変わらず眠れない・・・お祓いでもしてもらったほうがいいのですかね、これは。別に体と心に異常はないのですが、私は夜十時に寝る中学生、「ああ、授業中いつも寝てるひとね」とアイデンティファイされる高校生、そして飲み会ですぐ寝る大学生・院生、という人生行路を通ってきましたので、なんか自分が自分じゃないみたいです。よく効く対処療法をご存知のかたがおられましたら、どうか教えてくださいませ。今回はそんな眠れない夜の友をご紹介。
栗原剛著 『佐藤一斎―克己の思想』(再発見 日本の哲学)講談社
「近代の日本思想を読み直す」、菅野覚明+熊野純彦責任編集の新シリーズ「再発見 日本の哲学」、第二弾は栗原氏による、江戸期の儒学者で、西郷隆盛ら維新の志士に大きな影響を与えた佐藤一斎の巻です。本書では「学」と「志」の関係を切り口に、静坐、欲、運命などのトピックを通じて佐藤一斎の思想の内実を、「己」の問題を中心に解き明かし、また末尾では一斎に傾倒していた西郷の思想を通じて、一斎と近代、あるいは一斎と現代・現在との関係を問い直します。
出ましたね、第二弾。まあまだまだ大丈夫なのですが、でもこれが半年も連続になると大変だなあ・・・できる限りここで紹介していくつもりですけど。著者の栗原さんは、私は個人的に存じ上げているかたですが、本書を手に取れば、読者にもそのお人柄は伝わるはずです。そして佐藤一斎は、大学院の試験の準備のため『言志四録』くらい読もうか、と思ったこともあったのですが、文庫(たしか講談社学術文庫)で四冊という分量に圧倒されて、ひかえたのでした。
さて本書ですが、うーん、たしかに「近代の日本思想を読み返す」とコンセプトからすると、一斎は時代がやや古く、筆者もそのことを気にしておられるのですが、このさいいいんではないですかね、そんな細かなことは。そのくらいの研ぎ澄まされた迫力のある一冊です。テーマは、西郷がらみの論述も含めて、一斎の思想を「己」のありようという問題から追跡するとともに、もう一段メタレヴェルの問題として、デカルトやカントなどの意味でのいわゆる「哲学」の伝統があったわけではない我が国に、内外に自身を表現すべき「日本所蔵の「懸物」」としての価値を、一斎の思想が備えているのではないか、という問題があるのですが、これは迫力と説得力のあるしかたで論じきられていると思います。残念ながら、例えば「読書を始めた一斎が次第に思いを深め、いつしか書を閉じて静坐に入る、といった光景も、想像するに難くない」(p88)なんて清冽な文章は、私達所詮根無し草の洋学者には、とても一生書けそうにないですからね(栗原さんだからこそ書ける、といったほうが正確なのかもしれないけど)。
さて、そんな洋学者の視点からして、たいへん興味深いのは、一斎のある側面って、なにかヘーゲルとの親近性を感じさせるのです。仁斎はカントっぽくて、徂徠はヘーゲルっぽい、とかよく言われたりしますけど(少なくとも私が属している文化圏では)、一斎は徂徠とは違った意味で、ヘーゲルっぽい。弁証法的なのです。例えば「出発点であった立志」と、到達点である「実践される学全体」とが、重なり一致していることだとか(p69)、一斎と西郷に共通して言われる、「己の内に向かおうとする力と、己の外に開こうとする力が、矛盾しながら統一を要求する」という「学の構造」(p251)だとか。いますぐ気づくのはこんなところですけど、これ以外にも折々そんな印象を覚えました。うーん、ヘーゲルと江戸儒学の親近性って、けっこう根深い問題なのかもしれませんね。道元とハイデガーだとか、空海とエリウゲナだとか(これはもちろんby坂部さん)、仏教思想は西洋思想との親近性が指摘され、比較検討の対象になることがあるのですけど、江戸儒学とヘーゲル、という比較研究は、だれかやってみるといいのかもしれません。徂徠だったらヘーゲルよりずっと時代的に先だし、一斎なんかちょうどヘーゲルと同時代人だから、両者の思想の構造的な同型性がちゃんと言えたら、日本のほうが西洋よりずっと思想的には成熟していた、という結論も導けちゃったりなんかして。
関連は薄いですけど、もう一冊。
E.H.ノーマン著 『日本における近代国家の成立』大窪愿二訳 岩波文庫
二十世紀アメリカの優れた日本史研究家・ノーマンの、日本における近代国家の成立を論じた主著です。維新から日露戦争にいたるまでの驚異的な近代日本の第一期の軌跡を、じりじりと圧力のかかる外的な国際関係と、封建制の腐敗と明治期の社会的・経済的・政治的変革という内的な過程の両面から、鮮やかに描き出します。このたび、2007年夏の岩波文庫・一括重版の一冊として、書店に並んでおります。
いつもながらの話題ですけど、岩波文庫夏の一括重版の季節がやってきました(もう遅いけど)。和辻倫理学・啓蒙の弁証法・国語学原論、と、豪華な新作が続いた今年のラインナップに比べてしまうと、ちょっと小粒ですかね。思想系で「これ、欲しかったんだよなあ」というのはないですし、ゴンチャロフの『オブローモフ』がナイス・チョイスだとは思いますけど、残念ながらこれは持っています(ちなみに、現在のプロフィールの写真は、これを原作にした、ニキータ・ミハルコフの同名の映画のひとこまです。おはなしを知っているかたならお分かりのように、いまの私の境遇にぴったりなので)。で、ノーマンはなんとなく名前だけは聞いたことがあったし、ほかに欲しいものはないしで、手にしてみたのでした。
ところで、私は恥ずかしながら著者の悲劇的な最期を知らなかったので、一書を読んだのち末尾でその事情を知ったときには、言葉を失ってしまいました。戦後アメリカのいわゆる「赤狩り」を苦に自ら命を絶ったそうなのですが、そこまでひどかったのですね、これって。本書にもやはり、唯物史観的というか、講座派的というか、そういう色合いは見られることは確かなのですが、でもそれもそこまで強いわけではないですからね。というより、経済的・国際政治的・エートス的などの視点がバランスよく組み合わされていて、読み物としてはけっこう面白いものだと思いますよ、これは。後半はちょっと退屈して、さーっと読むだけになりましたけど。結局、著者が要約しているように、本書の基本的なテーゼは「内部的危機と外部的危機の結合が近代社会への変革を大いにはやめた」(p317)ということになるのですが、明治期の指導者たちの対外的力関係の冷静な現状認識や、維新期の新政府側と大町人の連携など、いろいろ知らなかったことも多く、勉強になりました。
そして、思想はやはり普遍を求める営みではありますけど、先の著作で一斎と西郷の生き様の異なりに関して栗原さんもお認めになっているように、やはりどういうタイプの思想家が世に出てくるかが時代の流れによって大きく左右されることは、これも否定しがたい事実であります。このことを、栗原さんの本のあとにノーマンを読んで、あらためてちょっと思いました。やっぱり徳川体制の限界が明らかになった維新前夜の時代に、一斎が生じえたか、というとやはり難しいし、どうしても松陰であったり、海舟であったり、西郷であったりしてくるわけです。つまり明治維新の背景となった封建制度の経済的・政治的基盤の破壊として「武士階級の地位の継続的転落、忠義な武士の窮迫した不平浪人への転化」、そしてこのことにより「この階級の忠義心を藩や幕府から倒幕のために活動しつつある諸勢力に移行させた」ことを挙げていますが、まあこうなってくると、どうしても歴史的現実の中で、自らの思想を展開してみなければならなくなる。さらにいえば、うえのくだりの「武士」を「正社員」に、「藩や幕府」を「ピーー党」に置き換えてみると、どこかの国の現在の政治地図に似ていないこともないような・・・うーん、今求められているのは、どんな思想家像なのでしょうか。考えてみる価値はあるようです。
さて最期におまけでもう一冊。夏の一括重版と平行して、同じく岩波文庫の石母田正『中世的世界の形成』が、また版を新たにしたようです。私が持っているのは第17版ですけど、いまはいくつでしょうか。これは言わずと知れた、戦後日本中世史学の代表作のひとつですが、叙述の魔力をもって読者を魅了するとも言われる作品で、私も実はその魔力にやられた人間のひとりです。たまに日本史関係の記事で「東大寺の古代的論理!」とか「黒田悪党の内的退廃!」とか叫んだりするのは、だいたいこれに由来します。興味のあるかたはお手に取ってみてください。

栗原剛著 『佐藤一斎―克己の思想』(再発見 日本の哲学)講談社
「近代の日本思想を読み直す」、菅野覚明+熊野純彦責任編集の新シリーズ「再発見 日本の哲学」、第二弾は栗原氏による、江戸期の儒学者で、西郷隆盛ら維新の志士に大きな影響を与えた佐藤一斎の巻です。本書では「学」と「志」の関係を切り口に、静坐、欲、運命などのトピックを通じて佐藤一斎の思想の内実を、「己」の問題を中心に解き明かし、また末尾では一斎に傾倒していた西郷の思想を通じて、一斎と近代、あるいは一斎と現代・現在との関係を問い直します。
出ましたね、第二弾。まあまだまだ大丈夫なのですが、でもこれが半年も連続になると大変だなあ・・・できる限りここで紹介していくつもりですけど。著者の栗原さんは、私は個人的に存じ上げているかたですが、本書を手に取れば、読者にもそのお人柄は伝わるはずです。そして佐藤一斎は、大学院の試験の準備のため『言志四録』くらい読もうか、と思ったこともあったのですが、文庫(たしか講談社学術文庫)で四冊という分量に圧倒されて、ひかえたのでした。
さて本書ですが、うーん、たしかに「近代の日本思想を読み返す」とコンセプトからすると、一斎は時代がやや古く、筆者もそのことを気にしておられるのですが、このさいいいんではないですかね、そんな細かなことは。そのくらいの研ぎ澄まされた迫力のある一冊です。テーマは、西郷がらみの論述も含めて、一斎の思想を「己」のありようという問題から追跡するとともに、もう一段メタレヴェルの問題として、デカルトやカントなどの意味でのいわゆる「哲学」の伝統があったわけではない我が国に、内外に自身を表現すべき「日本所蔵の「懸物」」としての価値を、一斎の思想が備えているのではないか、という問題があるのですが、これは迫力と説得力のあるしかたで論じきられていると思います。残念ながら、例えば「読書を始めた一斎が次第に思いを深め、いつしか書を閉じて静坐に入る、といった光景も、想像するに難くない」(p88)なんて清冽な文章は、私達所詮根無し草の洋学者には、とても一生書けそうにないですからね(栗原さんだからこそ書ける、といったほうが正確なのかもしれないけど)。
さて、そんな洋学者の視点からして、たいへん興味深いのは、一斎のある側面って、なにかヘーゲルとの親近性を感じさせるのです。仁斎はカントっぽくて、徂徠はヘーゲルっぽい、とかよく言われたりしますけど(少なくとも私が属している文化圏では)、一斎は徂徠とは違った意味で、ヘーゲルっぽい。弁証法的なのです。例えば「出発点であった立志」と、到達点である「実践される学全体」とが、重なり一致していることだとか(p69)、一斎と西郷に共通して言われる、「己の内に向かおうとする力と、己の外に開こうとする力が、矛盾しながら統一を要求する」という「学の構造」(p251)だとか。いますぐ気づくのはこんなところですけど、これ以外にも折々そんな印象を覚えました。うーん、ヘーゲルと江戸儒学の親近性って、けっこう根深い問題なのかもしれませんね。道元とハイデガーだとか、空海とエリウゲナだとか(これはもちろんby坂部さん)、仏教思想は西洋思想との親近性が指摘され、比較検討の対象になることがあるのですけど、江戸儒学とヘーゲル、という比較研究は、だれかやってみるといいのかもしれません。徂徠だったらヘーゲルよりずっと時代的に先だし、一斎なんかちょうどヘーゲルと同時代人だから、両者の思想の構造的な同型性がちゃんと言えたら、日本のほうが西洋よりずっと思想的には成熟していた、という結論も導けちゃったりなんかして。
関連は薄いですけど、もう一冊。
E.H.ノーマン著 『日本における近代国家の成立』大窪愿二訳 岩波文庫
二十世紀アメリカの優れた日本史研究家・ノーマンの、日本における近代国家の成立を論じた主著です。維新から日露戦争にいたるまでの驚異的な近代日本の第一期の軌跡を、じりじりと圧力のかかる外的な国際関係と、封建制の腐敗と明治期の社会的・経済的・政治的変革という内的な過程の両面から、鮮やかに描き出します。このたび、2007年夏の岩波文庫・一括重版の一冊として、書店に並んでおります。
いつもながらの話題ですけど、岩波文庫夏の一括重版の季節がやってきました(もう遅いけど)。和辻倫理学・啓蒙の弁証法・国語学原論、と、豪華な新作が続いた今年のラインナップに比べてしまうと、ちょっと小粒ですかね。思想系で「これ、欲しかったんだよなあ」というのはないですし、ゴンチャロフの『オブローモフ』がナイス・チョイスだとは思いますけど、残念ながらこれは持っています(ちなみに、現在のプロフィールの写真は、これを原作にした、ニキータ・ミハルコフの同名の映画のひとこまです。おはなしを知っているかたならお分かりのように、いまの私の境遇にぴったりなので)。で、ノーマンはなんとなく名前だけは聞いたことがあったし、ほかに欲しいものはないしで、手にしてみたのでした。
ところで、私は恥ずかしながら著者の悲劇的な最期を知らなかったので、一書を読んだのち末尾でその事情を知ったときには、言葉を失ってしまいました。戦後アメリカのいわゆる「赤狩り」を苦に自ら命を絶ったそうなのですが、そこまでひどかったのですね、これって。本書にもやはり、唯物史観的というか、講座派的というか、そういう色合いは見られることは確かなのですが、でもそれもそこまで強いわけではないですからね。というより、経済的・国際政治的・エートス的などの視点がバランスよく組み合わされていて、読み物としてはけっこう面白いものだと思いますよ、これは。後半はちょっと退屈して、さーっと読むだけになりましたけど。結局、著者が要約しているように、本書の基本的なテーゼは「内部的危機と外部的危機の結合が近代社会への変革を大いにはやめた」(p317)ということになるのですが、明治期の指導者たちの対外的力関係の冷静な現状認識や、維新期の新政府側と大町人の連携など、いろいろ知らなかったことも多く、勉強になりました。
そして、思想はやはり普遍を求める営みではありますけど、先の著作で一斎と西郷の生き様の異なりに関して栗原さんもお認めになっているように、やはりどういうタイプの思想家が世に出てくるかが時代の流れによって大きく左右されることは、これも否定しがたい事実であります。このことを、栗原さんの本のあとにノーマンを読んで、あらためてちょっと思いました。やっぱり徳川体制の限界が明らかになった維新前夜の時代に、一斎が生じえたか、というとやはり難しいし、どうしても松陰であったり、海舟であったり、西郷であったりしてくるわけです。つまり明治維新の背景となった封建制度の経済的・政治的基盤の破壊として「武士階級の地位の継続的転落、忠義な武士の窮迫した不平浪人への転化」、そしてこのことにより「この階級の忠義心を藩や幕府から倒幕のために活動しつつある諸勢力に移行させた」ことを挙げていますが、まあこうなってくると、どうしても歴史的現実の中で、自らの思想を展開してみなければならなくなる。さらにいえば、うえのくだりの「武士」を「正社員」に、「藩や幕府」を「ピーー党」に置き換えてみると、どこかの国の現在の政治地図に似ていないこともないような・・・うーん、今求められているのは、どんな思想家像なのでしょうか。考えてみる価値はあるようです。
さて最期におまけでもう一冊。夏の一括重版と平行して、同じく岩波文庫の石母田正『中世的世界の形成』が、また版を新たにしたようです。私が持っているのは第17版ですけど、いまはいくつでしょうか。これは言わずと知れた、戦後日本中世史学の代表作のひとつですが、叙述の魔力をもって読者を魅了するとも言われる作品で、私も実はその魔力にやられた人間のひとりです。たまに日本史関係の記事で「東大寺の古代的論理!」とか「黒田悪党の内的退廃!」とか叫んだりするのは、だいたいこれに由来します。興味のあるかたはお手に取ってみてください。
小阪修平氏死去
訃報です。在野の哲学・哲学史研究者で評論家の、小阪修平氏が十日、死去しました。心室細動が死因で、六十歳とのことです。小坂氏は独自に構築した一般読者向けの哲学史・現代思想関係の著作で知られ、主な著作に『イラスト西洋哲学史』(JICC出版局)、『非在の海』(河出書房新社)などがあります。
小阪氏の書いたものとは、考えてみると、なぜか私は接点がありませんでした。学部のころも、その前も。読むどころか、書店で見かけて「こんなのあるんだ」と思ったとかいう記憶すらもなくて、うーん、世代的な問題なのですかね。だけど、そんな私がなぜか、「小阪修平、聞いたことある名前だな」という想念にとらわれて、どこで刷り込まれたのだろうとよくよく考えてみると・・・廣松との対談書『歴史的実践の構想力』(作品者)があったのでしたね。これはこれまでの経緯でお分かりのように、私は「積読」状態できちんと読んでいないのですが、冒頭の数ページと、小阪氏の「あとがき」だけ読んでみました。その印象だけで話すと、すごく淡々と話し、書くかたのようですね。その割には廣松あいてに、けっこうしゃべっていますけど。また偉そうに、と、苦情・非難が来そうですけど、こういうかたが書くなら、『イラスト西洋哲学史』も、けっこう頼りになるのではないでしょうか。西洋哲学史でイラストって、何が載るのか、ちょっと気になりますしね(またアリストテレスの提灯とか?)。興味をお持ちのかたは手にとってみていかがでしょう。
ともかく、故人のご冥福をお祈りいたします。
小阪氏の書いたものとは、考えてみると、なぜか私は接点がありませんでした。学部のころも、その前も。読むどころか、書店で見かけて「こんなのあるんだ」と思ったとかいう記憶すらもなくて、うーん、世代的な問題なのですかね。だけど、そんな私がなぜか、「小阪修平、聞いたことある名前だな」という想念にとらわれて、どこで刷り込まれたのだろうとよくよく考えてみると・・・廣松との対談書『歴史的実践の構想力』(作品者)があったのでしたね。これはこれまでの経緯でお分かりのように、私は「積読」状態できちんと読んでいないのですが、冒頭の数ページと、小阪氏の「あとがき」だけ読んでみました。その印象だけで話すと、すごく淡々と話し、書くかたのようですね。その割には廣松あいてに、けっこうしゃべっていますけど。また偉そうに、と、苦情・非難が来そうですけど、こういうかたが書くなら、『イラスト西洋哲学史』も、けっこう頼りになるのではないでしょうか。西洋哲学史でイラストって、何が載るのか、ちょっと気になりますしね(またアリストテレスの提灯とか?)。興味をお持ちのかたは手にとってみていかがでしょう。
ともかく、故人のご冥福をお祈りいたします。
ドストエフスキーがやってきた
先日の記事は、いろいろなかたにご心配をおかけしたようで、どうもすみませんでした。ちょっとどうかしていたようです。私は毎年暑くなるとおかしくなる人間ですので、夏の間の私の言うことはまともに受け止めないでください。さて、毎年夏休み恒例(?)のロシア観念論特集、昨年はソクーロフ&タルコフスキーでしたが、今年はドストエフスキーの巻として、次のものを紹介。
亀山郁夫 『『悪霊』神になりたかった男』みすず書房
『カラマーゾフの兄弟』の新訳を発表し、東京外語大の学長に就任予定(でしたよね?)の時のひと、亀山氏によるドストエフスキー『悪霊』論です。本書はみすずの「理想の教室」シリーズの一冊として、生徒に語りかける平易な口調で、『悪霊』でももっとも重厚なスタヴローギンの「告白」部分を、独創的な解釈を交えつつ、丁寧に読み解きます。
亀山さんはほんとに最近すごいですねえ。ドストエフスキーというとこれまでは江川卓・原卓也という感じでしたが、新しい時代が来たのかもしれません。亀山さんの書いたものは、『ドストエフスキー 父殺しの文学』は気になっていたのですが、内容がだいたいタイトルから想像できてスルーしていたため、これが初亀山ということになります。
さて内容ですが、うーん、コンパクトな本でもあるため、スタヴローギンの「告白」にしぼっておはなしが進むのですが(あ、ドストエフスキーは完全に趣味でおはなししますので、前提知識などは説明しませんが、ご了承ください)、もうちょっと『悪霊』全体に話題が広がってもよかったのかな、という感想は持ちました。シャートフの惨殺の場面とか、キリーロフの思想とか(ベタですけど)、ほかにも盛り上がる箇所はいろいろありますし、私があまり「告白」部分は得意ではないので。まあ木田元さんのように、哲学屋のなかにはこの部分にとても大きな影響を受けたかたもおられるようですので、これはこれでいいのでしょうけど。
まあこの本も、タイトルから大体の内容は予想できないではなかったのですが、でもその割には楽しめたかな。告白なのにポリフォニー、とかいう文学の専門家のかたらしい読み方も興味深いですが、中身の読みでも、やっぱりかなわないですね、専門家には。スタヴローギンの人物像はあまりにも完成されているので、なかなか専門家でも読み込みをしていくのは難しいと思うのですが(屋根裏部屋での自殺を、ラスコーリニコフの屋根裏部屋→大地、という軌跡と対比させるのは面白かったけど)、マトリョーシャの理解については、「なるほど」と思わせられるところがいくつもありました。ちょっとここでは書きにくい内容ですので、気になる方は自分で読んでみてくださいね(ヒントは十四歳、囁き、ルソー)。ただ、刺激はかなり強いですので、読んで不快な思いをなされても、当方は責任を負いませんので、あしからず(もちろんこれは亀山さんの責任でもなく、ドストエフスキーの責任です)。
そしていよいよ本丸へ。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟 3』亀山郁夫訳 光文社古典新訳文庫
今話題の亀山訳『カラキョウ』、第三巻です。文学を中心とした古典の平易な新訳の文庫シリーズ・光文社古典新訳文庫の目玉のひとつで、先日ついに全五巻完結いたしました。
えーっと、気にはなっていたのですけどね、この亀山訳。みんないい、いいというので、ついにたまらず手にしてしまいました。ただ第一巻を手にとってしまうと、一通り読みたくなってしまって、たぶんもう半月ほどブログの更新をお休みすることになっていたと思いますので、ここは涙をのんで、ゾシマの死臭騒ぎ→フョードル殺害とモークロエでのお騒ぎ→ドミートリーの取調べ、と山場が続く(この小説の場合、どこをとってもそうですけど)、この第三巻だけをチョイスしました。
さて内容についてはいまさら話すこともありませんが、問題は訳文です。私は新潮文庫の原卓也訳で五〜六回通読したので、正直戸惑うところは多かったです。例えばアリョーシャがゾシマの死の直後、反逆のため食べるといったのは「サラミ」(亀山訳)じゃなくて「ソーセージ」(原訳)ではなかったっけ、とか、アリョーシャがグルーシェニカのところに行ったのは、「『いいんだ、いいんだ』って言うため」(亀山訳)ではなくて、「『かまうもんか、かまうもんか』と言うため」(原訳)ではなかったっけ、とか。まあこれからの若いひとには亀山訳がスタンダードになるのでしょうから、いいのですけど。それよりなにより、気になっていたのは、『カラキョウ』の一番の読みどころだと私が勝手に思っている箇所で、しかも三兄弟それぞれに共通したテーマでもある、連行されていくドミートリーの「なぜ童はみじめなんだ」のくだり。ちょっと並べてみると・・・
「どうしてそんなことが?なぜだい?」愚かなミーチャはそれでも引き下がらない。
「貧乏なうえに、焼け出されましてね、一片のパンもないんでさ。ああしてお恵みを乞うてますんで」
「いや、そのことじゃないんだ」ミーチャはそれでもまだ納得できぬかのようだ。「教えてくれよ。なぜ焼け出された母親たちがああして立っているんだい。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童はあんなにかわいそうなんだ。なぜこんな裸の荒野があるんだ。どうしてあの女たちは抱き合って接吻を交わさないんだ。なぜ喜びの歌をうたわないんだ。なぜ不幸な災難のために、あんなにどすぐろくなってしまったんだ。なぜ童に乳をやらないんだ」(原卓也訳・新潮文庫・中巻 p458)
「どうしてそんなことになる?どうしてだ?」ばかになったミーチャは、なおも引き下がらない。
「貧乏でさ、焼け出されちまって、パンのひと切れもありゃしませんで、焼け野原に立って助けを求めてるんでさ」
「いや、そうじゃない」ミーチャはそれでも合点がいかないらしい。「教えてくれ、どうしてああやって、焼け出された母親たちが立っているのか、どうしてみんな貧しいのか、どうして餓鬼はあわれなのか、どうして草原は空っぽなのか、どうして女たちは抱き合って口づけしないのか、どうして喜びの歌を歌わないのか、どうしてああして、黒い不幸で、ああも黒くなっちまったのか、どうして餓鬼に乳を飲ませてやれないのか?」 (亀山郁夫訳・光文社古典新訳文庫・3巻 p496)
ちなみに亀山訳では「餓鬼」のところに「がきんこ」とのルビがふってあります。うーん、やっぱり原訳でしょ、とか言うつもりだったのですが、さすが評判になるだけあって、よく工夫されているようですね。語彙が易しく、でもそれほど安っぽくなっていない(餓鬼はちょっとやりすぎかもしれないけど)。これなら安心して、この亀山訳に、これからの時代の高校生・大学生たちをお任せできるようです。お読みになっていないかたも、これを機会に是非。
それと、いま書店に並んでいる『21世紀ドストエフスキーがやってくる』(集英社)は、買ってここで紹介しようかとも思ったのですが、結局立ち読みですませることにしました。ちょっと全体のコンセプトがよく分からなかったので。木田さんのスタヴローギン論や、冒頭の金原ひとみ×島田雅彦の対談などを読みましたが、後者は面白かったので、もう少し長く掲載してほしかったなあ。興味のあるかたはこちらもどうぞ。
タルコフスキー→ドストエフスキーというこのベタ路線を継承するなら、来年は誰になるのですかね。チャイコフスキー?うーん、でもなんか観念論ぽくないなあ。まあともかく、<悲愴>や<ヴァイオリン協奏曲35番>などについてくらいは語れるよう、準備しておいたほうがいいのかもしれませんね。それではまた来年。
亀山郁夫 『『悪霊』神になりたかった男』みすず書房
『カラマーゾフの兄弟』の新訳を発表し、東京外語大の学長に就任予定(でしたよね?)の時のひと、亀山氏によるドストエフスキー『悪霊』論です。本書はみすずの「理想の教室」シリーズの一冊として、生徒に語りかける平易な口調で、『悪霊』でももっとも重厚なスタヴローギンの「告白」部分を、独創的な解釈を交えつつ、丁寧に読み解きます。
亀山さんはほんとに最近すごいですねえ。ドストエフスキーというとこれまでは江川卓・原卓也という感じでしたが、新しい時代が来たのかもしれません。亀山さんの書いたものは、『ドストエフスキー 父殺しの文学』は気になっていたのですが、内容がだいたいタイトルから想像できてスルーしていたため、これが初亀山ということになります。
さて内容ですが、うーん、コンパクトな本でもあるため、スタヴローギンの「告白」にしぼっておはなしが進むのですが(あ、ドストエフスキーは完全に趣味でおはなししますので、前提知識などは説明しませんが、ご了承ください)、もうちょっと『悪霊』全体に話題が広がってもよかったのかな、という感想は持ちました。シャートフの惨殺の場面とか、キリーロフの思想とか(ベタですけど)、ほかにも盛り上がる箇所はいろいろありますし、私があまり「告白」部分は得意ではないので。まあ木田元さんのように、哲学屋のなかにはこの部分にとても大きな影響を受けたかたもおられるようですので、これはこれでいいのでしょうけど。
まあこの本も、タイトルから大体の内容は予想できないではなかったのですが、でもその割には楽しめたかな。告白なのにポリフォニー、とかいう文学の専門家のかたらしい読み方も興味深いですが、中身の読みでも、やっぱりかなわないですね、専門家には。スタヴローギンの人物像はあまりにも完成されているので、なかなか専門家でも読み込みをしていくのは難しいと思うのですが(屋根裏部屋での自殺を、ラスコーリニコフの屋根裏部屋→大地、という軌跡と対比させるのは面白かったけど)、マトリョーシャの理解については、「なるほど」と思わせられるところがいくつもありました。ちょっとここでは書きにくい内容ですので、気になる方は自分で読んでみてくださいね(ヒントは十四歳、囁き、ルソー)。ただ、刺激はかなり強いですので、読んで不快な思いをなされても、当方は責任を負いませんので、あしからず(もちろんこれは亀山さんの責任でもなく、ドストエフスキーの責任です)。
そしていよいよ本丸へ。
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟 3』亀山郁夫訳 光文社古典新訳文庫
今話題の亀山訳『カラキョウ』、第三巻です。文学を中心とした古典の平易な新訳の文庫シリーズ・光文社古典新訳文庫の目玉のひとつで、先日ついに全五巻完結いたしました。
えーっと、気にはなっていたのですけどね、この亀山訳。みんないい、いいというので、ついにたまらず手にしてしまいました。ただ第一巻を手にとってしまうと、一通り読みたくなってしまって、たぶんもう半月ほどブログの更新をお休みすることになっていたと思いますので、ここは涙をのんで、ゾシマの死臭騒ぎ→フョードル殺害とモークロエでのお騒ぎ→ドミートリーの取調べ、と山場が続く(この小説の場合、どこをとってもそうですけど)、この第三巻だけをチョイスしました。
さて内容についてはいまさら話すこともありませんが、問題は訳文です。私は新潮文庫の原卓也訳で五〜六回通読したので、正直戸惑うところは多かったです。例えばアリョーシャがゾシマの死の直後、反逆のため食べるといったのは「サラミ」(亀山訳)じゃなくて「ソーセージ」(原訳)ではなかったっけ、とか、アリョーシャがグルーシェニカのところに行ったのは、「『いいんだ、いいんだ』って言うため」(亀山訳)ではなくて、「『かまうもんか、かまうもんか』と言うため」(原訳)ではなかったっけ、とか。まあこれからの若いひとには亀山訳がスタンダードになるのでしょうから、いいのですけど。それよりなにより、気になっていたのは、『カラキョウ』の一番の読みどころだと私が勝手に思っている箇所で、しかも三兄弟それぞれに共通したテーマでもある、連行されていくドミートリーの「なぜ童はみじめなんだ」のくだり。ちょっと並べてみると・・・
「どうしてそんなことが?なぜだい?」愚かなミーチャはそれでも引き下がらない。
「貧乏なうえに、焼け出されましてね、一片のパンもないんでさ。ああしてお恵みを乞うてますんで」
「いや、そのことじゃないんだ」ミーチャはそれでもまだ納得できぬかのようだ。「教えてくれよ。なぜ焼け出された母親たちがああして立っているんだい。なぜあの人たちは貧乏なんだ。なぜ童はあんなにかわいそうなんだ。なぜこんな裸の荒野があるんだ。どうしてあの女たちは抱き合って接吻を交わさないんだ。なぜ喜びの歌をうたわないんだ。なぜ不幸な災難のために、あんなにどすぐろくなってしまったんだ。なぜ童に乳をやらないんだ」(原卓也訳・新潮文庫・中巻 p458)
「どうしてそんなことになる?どうしてだ?」ばかになったミーチャは、なおも引き下がらない。
「貧乏でさ、焼け出されちまって、パンのひと切れもありゃしませんで、焼け野原に立って助けを求めてるんでさ」
「いや、そうじゃない」ミーチャはそれでも合点がいかないらしい。「教えてくれ、どうしてああやって、焼け出された母親たちが立っているのか、どうしてみんな貧しいのか、どうして餓鬼はあわれなのか、どうして草原は空っぽなのか、どうして女たちは抱き合って口づけしないのか、どうして喜びの歌を歌わないのか、どうしてああして、黒い不幸で、ああも黒くなっちまったのか、どうして餓鬼に乳を飲ませてやれないのか?」 (亀山郁夫訳・光文社古典新訳文庫・3巻 p496)
ちなみに亀山訳では「餓鬼」のところに「がきんこ」とのルビがふってあります。うーん、やっぱり原訳でしょ、とか言うつもりだったのですが、さすが評判になるだけあって、よく工夫されているようですね。語彙が易しく、でもそれほど安っぽくなっていない(餓鬼はちょっとやりすぎかもしれないけど)。これなら安心して、この亀山訳に、これからの時代の高校生・大学生たちをお任せできるようです。お読みになっていないかたも、これを機会に是非。
それと、いま書店に並んでいる『21世紀ドストエフスキーがやってくる』(集英社)は、買ってここで紹介しようかとも思ったのですが、結局立ち読みですませることにしました。ちょっと全体のコンセプトがよく分からなかったので。木田さんのスタヴローギン論や、冒頭の金原ひとみ×島田雅彦の対談などを読みましたが、後者は面白かったので、もう少し長く掲載してほしかったなあ。興味のあるかたはこちらもどうぞ。
タルコフスキー→ドストエフスキーというこのベタ路線を継承するなら、来年は誰になるのですかね。チャイコフスキー?うーん、でもなんか観念論ぽくないなあ。まあともかく、<悲愴>や<ヴァイオリン協奏曲35番>などについてくらいは語れるよう、準備しておいたほうがいいのかもしれませんね。それではまた来年。














