ご報告・第四十一回 哲学/倫理学セミナー
去る五月二十六日に、哲学/倫理学セミナーの第四十一回例会が開催されました。研究発表「資本主義のリビドー経済――ドゥルーズ=ガタリにおける「経済学批判」の可能性」行われ、多彩な参加者による活発な意見交換の場となりました。次回の第四十二回例会は七月二十一日に、二本立てでの開催が予定されています。自由参加となっておりますので、会場等の詳しい情報を必要とされるかた、哲学/倫理学セミナーに関心をお持ちのかたは、下記のアドレスよりのアクセスをお願いいたします。
哲学/倫理学セミナー http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/
〔追記〕昨日、ご心配とご迷惑をおかけしたみなさまには、心よりお詫びいたします。焼酎と会場の空気に、完全にのまれていたようです。気がつくと、そこは小山でした。
哲学/倫理学セミナー http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/
〔追記〕昨日、ご心配とご迷惑をおかけしたみなさまには、心よりお詫びいたします。焼酎と会場の空気に、完全にのまれていたようです。気がつくと、そこは小山でした。
声に出して読みたいアウグスティヌス
軌道修正第二弾。私の本当の専門は古代キリスト教教父、でも今のところはないのですが、ともかく次のものを紹介。
加藤信朗著 『アウグスティヌス『告白録』講義』 知泉書館
半世紀を越えて哲学研究・アウグスティヌスとの対話を続けてこられた、加藤信朗先生による『告白録』の注解・講義録です。アウグスティヌス自身の体験の回想のみならず、神の賛美、哲学的省察、聖書解釈など、一見雑多な内容が盛り込まれているかの『告白録』に、緊密な内的構成の存在を指摘しつつ、神と「私」の間を往復するアウグスティヌスの思考と信仰のダイナミズムを鮮やかに描き出します。
加藤信朗先生というと、私のような若造にとっては、神崎繁先生や清水哲郎先生など、旧都立大出身の古代・中世哲学の優秀な研究者たちを世に送り出した偉大な先生、という感じで、雲の上の伝説のひと、という印象が強いのですが、まだまだご自身もご健在なのですね。今年で御年八十一歳ですか。本書を紐解けば分かるように、おっしゃることはまったくもって明晰で、ちょっと信じがたいほどです。これほど明晰な思考を六十年も続けていたら、とてもじゃないけど神経が持たないように私などは思うのですが、これはやはり信仰があるからなのでしょうか。
さて本書ですが、正直なところ、ここで紹介したものかどうか、迷っていました。かなりの優れものなので、紹介してひとに知られてしまうのが、ちょっと惜しくなったのです。まあ、人文書の普及をはかるという、当ブログの高邁な使命(!!)のため、泣く泣く紹介することにします。本書はラテン語の原文をひきながら、鍵になる一文一文を細かく検討していき、ときには音読まで勧めるのですが、やっぱりアウグスティヌスは文体が魅力なので、これはなかなか楽しい。冒頭の「マーグヌス エス、ドミネー、エト ラウダービリス ヴァルデ」なんて、翻訳で読むとさっさと読み飛ばしてしまうところですけど、実際に声に出して読んでみると、なかなか味わい深いものであります。
述べられていること自体も、なかなか素人では思いつかない、長くアウグスティヌスとの対話を続けてこられた加藤先生ならではの、興味深い指摘に満ちています。例えば折々指摘される、アウグスティヌスのアフリカびいきと、アンブロシウスまでを含めたローマ本土的なものへのよそよそしさは、ゴシップ的な興味をそそります。また私が『告白録』で一番好きな、神を外なる世界に求めるアウグスティヌスに、大地も海も空も「私はあなたの神ではない・・・そのかたが私たちを作った(non sumus deus tuus. ipse fecit nos.)」と、「大声を上げて叫び(exclamare)」、アウグスティヌスの探究が「私」の内へと向けられることになる第十巻の箇所についても、この「叫ぶ」をめぐって、福音書をひきながら丁寧なコメントがなされていて(p293のあたり)、嬉しく思いました。ただ、やはり最大の読みどころは、第一巻冒頭の一節を読み解く、第3講でしょう。『告白録』冒頭の賛美って、先ほども書いたように、翻訳などではさーっと読み飛ばしてしまうのですが、『告白録』全体の内容と、信と知をめぐる困難の解決の方途が暗示されている、極めて大事な箇所なのですね。宗教の段落/神学の段落/哲学の段落/探究と宣教の段落との四つのステップからなる、『告白録』全体を貫く論理の雛形ともいえる内的なロジックを明らかにしていく加藤先生の読みの深さには、ただただ感嘆するばかりでした。カントでも何でも、このくらい読み込まなきゃ、やっぱり駄目なんですよねえ。
『告白録』関係のものをもう一発。
フォン・ハルナック著『アウグスティンの懺悔録』山谷省吾訳 岩波文庫
十九世紀末から二十世紀前半にかけての歴史神学の巨頭で、カール・バルトとの論争でも知られるフォン・ハルナックの『告白録』に関する二つの講義と論文を収めた一冊です。前半の「アウグスティンの懺悔録」では歴史的文脈など大きな枠組みのなかで『告白録』の特色を明らかにし、後半の「アウグスティヌスの懺悔録の諸峯」では『告白録』冒頭をはじめ、新プラトン主義との出会い、有名な「Tolle,lege」の庭園の回心、死の直前の母との対話といった、アウグスティヌスの歩みの決定的な契機となった箇所を精読し、その内実を探ります。
コーンフォードの『ソクラテス以前以後』、ブラックの『プラトン入門』と、古代ギリシャ哲学の解説書はいくつか岩波文庫に入っていますが、こんなものもあったのですね。このまえ、お茶の水の三省堂近くの古本屋で見つけました。まあ著者は有名な神学者らしいので、純粋な研究書・啓蒙書の類とはいえないのでしょうけど。
で、内容ですが、ちょっと今日からみると、興味をひきにくいかなあ、というのが正直なところです。後半の論考の最初、『告白録』冒頭の解釈、つまり心の中にある宗教の素質と、その展開としての歴史哲学の相互補完性という解釈も、初読のときは「おっ」と思ったのですが、加藤先生のものと比べると、やや強引で説得力が弱いように思え(小さな本だから仕方がないのですけど)、ちょっと色あせて見えてしまいます。時代の空気もあるのでしょうけど、なんかハイデガーっぽいですし。ただ、本書がいいのは、引用箇所がみな魅力的だということ。庭園の回心のところも、本書の長い引用で読んで、改めて心を動かされてしまい、久しぶりに『告白録』を通読してしまいました。そして格言として次々に挙げられる『此が私の生活だった――が一体生活だろうか』『私は自分自身にとって大きな疑問となった』『人間は一大深淵だ』といった、ちょっと翻訳の日本語は古いですけど、それでもなお魅力的な名言の数々・・・うーん、声に出して読みたい。
日本語ブームもそろそろ終息をむかえたようで、次はアウグスティヌスを声に出して読んでみてもいいのかもしれません。ここに紹介した二冊とも、読者をアウグスティヌスのテクストへと強く誘うものですので、興味をもたれたかたはぜひ、お手におとりくださいませ。
加藤信朗著 『アウグスティヌス『告白録』講義』 知泉書館
半世紀を越えて哲学研究・アウグスティヌスとの対話を続けてこられた、加藤信朗先生による『告白録』の注解・講義録です。アウグスティヌス自身の体験の回想のみならず、神の賛美、哲学的省察、聖書解釈など、一見雑多な内容が盛り込まれているかの『告白録』に、緊密な内的構成の存在を指摘しつつ、神と「私」の間を往復するアウグスティヌスの思考と信仰のダイナミズムを鮮やかに描き出します。
加藤信朗先生というと、私のような若造にとっては、神崎繁先生や清水哲郎先生など、旧都立大出身の古代・中世哲学の優秀な研究者たちを世に送り出した偉大な先生、という感じで、雲の上の伝説のひと、という印象が強いのですが、まだまだご自身もご健在なのですね。今年で御年八十一歳ですか。本書を紐解けば分かるように、おっしゃることはまったくもって明晰で、ちょっと信じがたいほどです。これほど明晰な思考を六十年も続けていたら、とてもじゃないけど神経が持たないように私などは思うのですが、これはやはり信仰があるからなのでしょうか。
さて本書ですが、正直なところ、ここで紹介したものかどうか、迷っていました。かなりの優れものなので、紹介してひとに知られてしまうのが、ちょっと惜しくなったのです。まあ、人文書の普及をはかるという、当ブログの高邁な使命(!!)のため、泣く泣く紹介することにします。本書はラテン語の原文をひきながら、鍵になる一文一文を細かく検討していき、ときには音読まで勧めるのですが、やっぱりアウグスティヌスは文体が魅力なので、これはなかなか楽しい。冒頭の「マーグヌス エス、ドミネー、エト ラウダービリス ヴァルデ」なんて、翻訳で読むとさっさと読み飛ばしてしまうところですけど、実際に声に出して読んでみると、なかなか味わい深いものであります。
述べられていること自体も、なかなか素人では思いつかない、長くアウグスティヌスとの対話を続けてこられた加藤先生ならではの、興味深い指摘に満ちています。例えば折々指摘される、アウグスティヌスのアフリカびいきと、アンブロシウスまでを含めたローマ本土的なものへのよそよそしさは、ゴシップ的な興味をそそります。また私が『告白録』で一番好きな、神を外なる世界に求めるアウグスティヌスに、大地も海も空も「私はあなたの神ではない・・・そのかたが私たちを作った(non sumus deus tuus. ipse fecit nos.)」と、「大声を上げて叫び(exclamare)」、アウグスティヌスの探究が「私」の内へと向けられることになる第十巻の箇所についても、この「叫ぶ」をめぐって、福音書をひきながら丁寧なコメントがなされていて(p293のあたり)、嬉しく思いました。ただ、やはり最大の読みどころは、第一巻冒頭の一節を読み解く、第3講でしょう。『告白録』冒頭の賛美って、先ほども書いたように、翻訳などではさーっと読み飛ばしてしまうのですが、『告白録』全体の内容と、信と知をめぐる困難の解決の方途が暗示されている、極めて大事な箇所なのですね。宗教の段落/神学の段落/哲学の段落/探究と宣教の段落との四つのステップからなる、『告白録』全体を貫く論理の雛形ともいえる内的なロジックを明らかにしていく加藤先生の読みの深さには、ただただ感嘆するばかりでした。カントでも何でも、このくらい読み込まなきゃ、やっぱり駄目なんですよねえ。
『告白録』関係のものをもう一発。
フォン・ハルナック著『アウグスティンの懺悔録』山谷省吾訳 岩波文庫
十九世紀末から二十世紀前半にかけての歴史神学の巨頭で、カール・バルトとの論争でも知られるフォン・ハルナックの『告白録』に関する二つの講義と論文を収めた一冊です。前半の「アウグスティンの懺悔録」では歴史的文脈など大きな枠組みのなかで『告白録』の特色を明らかにし、後半の「アウグスティヌスの懺悔録の諸峯」では『告白録』冒頭をはじめ、新プラトン主義との出会い、有名な「Tolle,lege」の庭園の回心、死の直前の母との対話といった、アウグスティヌスの歩みの決定的な契機となった箇所を精読し、その内実を探ります。
コーンフォードの『ソクラテス以前以後』、ブラックの『プラトン入門』と、古代ギリシャ哲学の解説書はいくつか岩波文庫に入っていますが、こんなものもあったのですね。このまえ、お茶の水の三省堂近くの古本屋で見つけました。まあ著者は有名な神学者らしいので、純粋な研究書・啓蒙書の類とはいえないのでしょうけど。
で、内容ですが、ちょっと今日からみると、興味をひきにくいかなあ、というのが正直なところです。後半の論考の最初、『告白録』冒頭の解釈、つまり心の中にある宗教の素質と、その展開としての歴史哲学の相互補完性という解釈も、初読のときは「おっ」と思ったのですが、加藤先生のものと比べると、やや強引で説得力が弱いように思え(小さな本だから仕方がないのですけど)、ちょっと色あせて見えてしまいます。時代の空気もあるのでしょうけど、なんかハイデガーっぽいですし。ただ、本書がいいのは、引用箇所がみな魅力的だということ。庭園の回心のところも、本書の長い引用で読んで、改めて心を動かされてしまい、久しぶりに『告白録』を通読してしまいました。そして格言として次々に挙げられる『此が私の生活だった――が一体生活だろうか』『私は自分自身にとって大きな疑問となった』『人間は一大深淵だ』といった、ちょっと翻訳の日本語は古いですけど、それでもなお魅力的な名言の数々・・・うーん、声に出して読みたい。
日本語ブームもそろそろ終息をむかえたようで、次はアウグスティヌスを声に出して読んでみてもいいのかもしれません。ここに紹介した二冊とも、読者をアウグスティヌスのテクストへと強く誘うものですので、興味をもたれたかたはぜひ、お手におとりくださいませ。
二つの地中海物語―天気晴朗ナレドモ浪高シ
ここのところ、日本関係の書籍の記事が続きましたが、私の専門は周知のように、西洋中世のビザンティンですので(と、いつか言ってみたい)、ここらで軌道修正をはかりたく、ひとつ。
樺山紘一 『地中海―人と町の肖像』 岩波新書
中世からルネサンスにかけての西洋中世史がご専門の碩学・樺山氏による、地中海の歴史をめぐる珠玉のエッセイ集です。ヘロドトスとイブン・ハルドゥーン、聖アントニウスと聖ヒエロニムスなど、それぞれ二人の主な登場人物を中心に、歴史・科学・聖者・真理・予言・景観の六つのトピックスを眺めながらゆるゆると、ペルシア戦争から『ローマの休日』にまで至る、地中海周辺の歴史を辿ります。
先の『大航海』での坂部さんとの対談を読んださい、樺山さんの歴史への情熱と鋭敏な感受性にちょっと感動して、樺山さんの書いたものを何か読んでみたいと思っていたのですが、岩波新書のリニューアル後すぐに出たこの本、樺山さんが書かれておられたのですね。渋谷の古本屋で目にするまでは、まったく気づいていませんでした。
さて本書の内容ですが、まあ、絶対に読んで損する本ではありません。でもやっぱり、ご専門の中世からルネサンスにかけての第四章・第五章が際立って光彩を放っているようにはみえました。アレクサンドリアに王朝の首座を置くさい、プトレマイオス一世が抱いていたであろう、ナイル河畔の薄暗い古きエジプトへの慄きの指摘(p50)などにみられる感受性は、やはり素晴らしいと思いますし、『ローマの休日』を話の枕にして、憧れの都・ローマとヴェネチアの景観とイメージの歴史を辿る第六章なんかも、とても素敵なんですけど。で、読み応えがあった二つの章、第四章はともにイベリア出身のほぼ同時代人で、しかもともにアリストテレス主義者であった、この時代のイスラームとユダヤを代表する知性、イブン・ルシュドとマイモニデスにより「真理」が、第五章は西洋中世とルネサンス期を代表する予言者、ヨアキムとノストラダムスにより「予言」が、それぞれ論じられることになります。第四章については、アヴェロエスとマイモニデスが、同じような時代と地域の空気を吸って生きていたとは、考えたこともなかったし、イスラームもキリスト教側も、ともに次第に排他的になっていく、そんな時代背景まで含めて、色々とお勉強させていただきました。でもとりわけ「こりゃすげえ」と思ったのは、第五章ですかね。ヨアキムはまだいいとして、ノストラダムスは歴史的人物としての価値が、世紀をまたぐ時期に大暴落してしまいましたが、樺山氏は豊かなイメージ言語を駆使する、十六世紀フランスユマニストとしてのノストラダムスに、固有の価値を認めます。いわく、「ノストラダムスにとっては、予言は比喩表現によって構成されるルネサンスの科学であった」のであり、ユマニスムの精神の凋落とともに、ノストラダムスは単なる世界の終末の図柄の発見者とされることになったが、「二十一世紀におけるユマニスムの再興は、まずはノストラダムスの詩的テクストを、イメージ言語のシステムとして読みとりなおすことから、始めらねばなるまい」と、かなり大胆な提言にまで至ります。さらに十二世紀のヨアキムを再び登場させつつ、予言の心性が数千年をかけて地中海をおおう共同の歴史意識であったこと、つまり「まことに、予言は地中海における歴史言語であった」との結論が導き出されます。うーん、こんなビビッドな発想、私が一生を中世史研究に捧げても、出てこないだろうなあ・・・まあ、私はある意味近代主義者ですので、予言に真理を担うものとしての価値は認めない立場ですけど、ものの見方としては非常に面白い。ちょっと興奮しました。
もう一冊、地中海といえばあのひと、というかたの本を。
フェルナン・ブローデル編『地中海世界』神沢栄三訳 みすず書房
アナール学派に属する二十世紀の歴史家・地理学者、フェルナン・ブローデルの編集による、地中海世界をめぐるアンソロジーです。それぞれ六本の論考よりなる「空間と歴史」、「人間と遺産」の二部(事情がよく分からないど、それぞれの末尾に訳者あとがきがあるので、二冊?)構成で、イスラーム、キリスト教、ユダヤをはじめ、ギリシア・ローマやフェニキア、エジプトなど、様々な文明の交差する世界・地中海世界の歴史のいくつかの印象深い局面を描き出します。
実はGW中、『十六世紀科学革命』ではなく、これを読んでいました。ごめんなさい。たしか去年の秋ごろ、大学の生協でみすず書房の本の安売りをやっていまして、いつか読むときのために買っておいたのですが、ふらふらと魅かれるようにして、読まねばならない山のような書籍を尻目に、つかのまの地中海旅行に興じていたのでした。
まあ日が落ちてから、寝転がりながら、そして時々はお酒を飲みながら読んでいた本ですので、そんなに難しいことは覚えていません。ただ、やっぱりブローデル自身の書いた、「空間と歴史」の五本目、「歴史」が興味深かったかな。読書の愉しみの点ではこれに勝っているものはいくつかありますが、原理的な問題が論じられていて、やや問題点が垣間見えた箇所もありましたので。時代と文化を代表するひとに焦点を当てる樺山さんの本とは打って変わって、ここでは英雄でも学者でも芸術家でもなく、文明が、つまり「時代を越え、時間に打ち勝ってきた」ところの、「地理的空間にどっしりと根を張った」文明が主役となります。まあ個々のひとの思惑を超えた、いやむしろその背後にある、何か薄暗い巨大な力の作用は、歴史において否定しがたいリアリティを持っているわけですが、でもなんか、ちょっと違和は覚えました。ヘルダーを読んでも思うのですが、個人が歴史を作るというヒューマニズムを疑い、単線的な歴史に異を唱え、風土や文明、空間性に注目するのは確かに素晴らしい、けれど、そこにもまた、決定論の陥穽が大きく口を開けて待ち構えているわけです。まあしどく凡庸で当たり前のことですし、樺山さんもイブン・ハルドゥーンのところで言及していることではありますけど。さらにブローデルは、「文明とは戦争であり、憎悪であって、大きな影の部分が文明をほとんど半ば近くまで食いつぶしている」とみて、この文明間の軋轢を歴史の原理としますが、これは何とも恐ろしい。もちろんブローデルも、こうした文明のみが歴史を作り上げるのではなく、他の要因の存在も認めるわけですが、でも、それも、経済とか交易ですからねえ。歴史叙述でどこに重点を置くかって、ここ何世紀かでずいぶん選択肢が増えたこともあり、とても難しい問題であるとは思うのですが、そのへんも考え合わせてみると私は、大きな捉えがたい力が流れ込んでいったところの、人と町に焦点を合わせた樺山メソッドが、かなり成功しているのではないかなと、改めて思っています。ブローデルの主著『地中海』を読んだわけではないので、偉そうなことは言えないのですけど。
記事のタイトルが思いつかなかったので、某漫画の明らかなパクリで、しかも記事の内容と関係のないものになってしまいました。ともかく、「天気晴朗」なる地中海へと読者を誘うこの二冊、気が向きましたらぜひどうぞ。
樺山紘一 『地中海―人と町の肖像』 岩波新書
中世からルネサンスにかけての西洋中世史がご専門の碩学・樺山氏による、地中海の歴史をめぐる珠玉のエッセイ集です。ヘロドトスとイブン・ハルドゥーン、聖アントニウスと聖ヒエロニムスなど、それぞれ二人の主な登場人物を中心に、歴史・科学・聖者・真理・予言・景観の六つのトピックスを眺めながらゆるゆると、ペルシア戦争から『ローマの休日』にまで至る、地中海周辺の歴史を辿ります。
先の『大航海』での坂部さんとの対談を読んださい、樺山さんの歴史への情熱と鋭敏な感受性にちょっと感動して、樺山さんの書いたものを何か読んでみたいと思っていたのですが、岩波新書のリニューアル後すぐに出たこの本、樺山さんが書かれておられたのですね。渋谷の古本屋で目にするまでは、まったく気づいていませんでした。
さて本書の内容ですが、まあ、絶対に読んで損する本ではありません。でもやっぱり、ご専門の中世からルネサンスにかけての第四章・第五章が際立って光彩を放っているようにはみえました。アレクサンドリアに王朝の首座を置くさい、プトレマイオス一世が抱いていたであろう、ナイル河畔の薄暗い古きエジプトへの慄きの指摘(p50)などにみられる感受性は、やはり素晴らしいと思いますし、『ローマの休日』を話の枕にして、憧れの都・ローマとヴェネチアの景観とイメージの歴史を辿る第六章なんかも、とても素敵なんですけど。で、読み応えがあった二つの章、第四章はともにイベリア出身のほぼ同時代人で、しかもともにアリストテレス主義者であった、この時代のイスラームとユダヤを代表する知性、イブン・ルシュドとマイモニデスにより「真理」が、第五章は西洋中世とルネサンス期を代表する予言者、ヨアキムとノストラダムスにより「予言」が、それぞれ論じられることになります。第四章については、アヴェロエスとマイモニデスが、同じような時代と地域の空気を吸って生きていたとは、考えたこともなかったし、イスラームもキリスト教側も、ともに次第に排他的になっていく、そんな時代背景まで含めて、色々とお勉強させていただきました。でもとりわけ「こりゃすげえ」と思ったのは、第五章ですかね。ヨアキムはまだいいとして、ノストラダムスは歴史的人物としての価値が、世紀をまたぐ時期に大暴落してしまいましたが、樺山氏は豊かなイメージ言語を駆使する、十六世紀フランスユマニストとしてのノストラダムスに、固有の価値を認めます。いわく、「ノストラダムスにとっては、予言は比喩表現によって構成されるルネサンスの科学であった」のであり、ユマニスムの精神の凋落とともに、ノストラダムスは単なる世界の終末の図柄の発見者とされることになったが、「二十一世紀におけるユマニスムの再興は、まずはノストラダムスの詩的テクストを、イメージ言語のシステムとして読みとりなおすことから、始めらねばなるまい」と、かなり大胆な提言にまで至ります。さらに十二世紀のヨアキムを再び登場させつつ、予言の心性が数千年をかけて地中海をおおう共同の歴史意識であったこと、つまり「まことに、予言は地中海における歴史言語であった」との結論が導き出されます。うーん、こんなビビッドな発想、私が一生を中世史研究に捧げても、出てこないだろうなあ・・・まあ、私はある意味近代主義者ですので、予言に真理を担うものとしての価値は認めない立場ですけど、ものの見方としては非常に面白い。ちょっと興奮しました。
もう一冊、地中海といえばあのひと、というかたの本を。
フェルナン・ブローデル編『地中海世界』神沢栄三訳 みすず書房
アナール学派に属する二十世紀の歴史家・地理学者、フェルナン・ブローデルの編集による、地中海世界をめぐるアンソロジーです。それぞれ六本の論考よりなる「空間と歴史」、「人間と遺産」の二部(事情がよく分からないど、それぞれの末尾に訳者あとがきがあるので、二冊?)構成で、イスラーム、キリスト教、ユダヤをはじめ、ギリシア・ローマやフェニキア、エジプトなど、様々な文明の交差する世界・地中海世界の歴史のいくつかの印象深い局面を描き出します。
実はGW中、『十六世紀科学革命』ではなく、これを読んでいました。ごめんなさい。たしか去年の秋ごろ、大学の生協でみすず書房の本の安売りをやっていまして、いつか読むときのために買っておいたのですが、ふらふらと魅かれるようにして、読まねばならない山のような書籍を尻目に、つかのまの地中海旅行に興じていたのでした。
まあ日が落ちてから、寝転がりながら、そして時々はお酒を飲みながら読んでいた本ですので、そんなに難しいことは覚えていません。ただ、やっぱりブローデル自身の書いた、「空間と歴史」の五本目、「歴史」が興味深かったかな。読書の愉しみの点ではこれに勝っているものはいくつかありますが、原理的な問題が論じられていて、やや問題点が垣間見えた箇所もありましたので。時代と文化を代表するひとに焦点を当てる樺山さんの本とは打って変わって、ここでは英雄でも学者でも芸術家でもなく、文明が、つまり「時代を越え、時間に打ち勝ってきた」ところの、「地理的空間にどっしりと根を張った」文明が主役となります。まあ個々のひとの思惑を超えた、いやむしろその背後にある、何か薄暗い巨大な力の作用は、歴史において否定しがたいリアリティを持っているわけですが、でもなんか、ちょっと違和は覚えました。ヘルダーを読んでも思うのですが、個人が歴史を作るというヒューマニズムを疑い、単線的な歴史に異を唱え、風土や文明、空間性に注目するのは確かに素晴らしい、けれど、そこにもまた、決定論の陥穽が大きく口を開けて待ち構えているわけです。まあしどく凡庸で当たり前のことですし、樺山さんもイブン・ハルドゥーンのところで言及していることではありますけど。さらにブローデルは、「文明とは戦争であり、憎悪であって、大きな影の部分が文明をほとんど半ば近くまで食いつぶしている」とみて、この文明間の軋轢を歴史の原理としますが、これは何とも恐ろしい。もちろんブローデルも、こうした文明のみが歴史を作り上げるのではなく、他の要因の存在も認めるわけですが、でも、それも、経済とか交易ですからねえ。歴史叙述でどこに重点を置くかって、ここ何世紀かでずいぶん選択肢が増えたこともあり、とても難しい問題であるとは思うのですが、そのへんも考え合わせてみると私は、大きな捉えがたい力が流れ込んでいったところの、人と町に焦点を合わせた樺山メソッドが、かなり成功しているのではないかなと、改めて思っています。ブローデルの主著『地中海』を読んだわけではないので、偉そうなことは言えないのですけど。
記事のタイトルが思いつかなかったので、某漫画の明らかなパクリで、しかも記事の内容と関係のないものになってしまいました。ともかく、「天気晴朗」なる地中海へと読者を誘うこの二冊、気が向きましたらぜひどうぞ。
青春と自覚と表現と
久々にプロフィールの写真変えてみました。これは私の生写真、ではもちろんなく、『テルレスの青春』のテルレスくんです。これまでのもの(『鏡』の冒頭のシーンのやつ)は何だかんだで気に入っていたのですが、これにはあまり満足していないので、またすぐ変えるかもしれませんけど。
雑誌を紹介。
『ラチオ 03号』講談社
「あらゆる問題を根本から考え直す新本格派の思想誌」、ラチオの第三号です。本号では「大特集 「日本の近代」とは何か」が組まれており、菅野覚明氏、熊野純彦氏、宮川敬之氏、大澤真幸氏らがそれぞれの視角から、縦横に日本の近代を論じます。
ラチオっていままで眺めているだけで手に取ったことはなかったのですが、やっぱり変わってますね。まず何より重い。「電話帳か!」と思わずつっこみを入れてしまいました。「大特集」が四つもあるのも謎ですし。そしてこの装丁で、価格が二千円・・・どういう採算が成り立っているのですかね。
今日買ったばかりなので、とりあえず次のものだけ紹介。
巻頭対談 菅野覚明vs.熊野純彦 「自覚」と日本人―近代日本思想史への試み
『詩と国家』で和辻倫理学への批判的な視角を打ち出した、倫理学・日本思想史がご専門の菅野覚明先生と、岩波文庫版・和辻哲郎『倫理学』の解説をお書きになった熊野純彦先生による、近代日本思想史をめぐる対談です。西田・九鬼・和辻・三木はもとより、透谷・漱石・大杉栄・小林秀雄などまで登場し、「近代日本思想とは何かという、骨格をとらえるような議論」への構想が、自由に語られます。
噂では聞いていましたけど、やっぱり色々な話題が咲き乱れて、繁茂していますね。まあお二人が対談したらそうなるし、論文ではなく対談なのだから、刈り込んで果実を取り込まなくてもいいわけですからね。ただここれだけ厚い雑誌なんだから、もうちょっとページを割いてくれてもいいのに、と思いますけど。ともかく、
菅野「文学者とか文体とかに関して言うと、私がぱっと連想するのは大杉栄です。・・・」
熊野「いきなり大杉というと、ふつうの読者にはちょっと唐突かもしれないけど、面白いのは・・・」
・・・
菅野「透谷と大杉はつながっている感じがする。左に大杉がいるとすれば、その右に和辻。」
熊野「和辻との対照項としての大杉、その大杉から、ベルクソンつながりで小林というのが、ひとつのラインとして確認されましたよね。一見、非常識極まる図式だけど。」
といった掛け合いを見ているだけでも、楽しい対談です。で、内容については、自叙伝的な書き方が「近代日本に固有のジャンルになるのではないか」というご指摘にはじまり、「漱石が代表するものと和辻的な思考との交錯が、近代日本思想史のポイントになることは間違いない」、和辻は自らの文体を「外国語の翻訳を経由して日本語をつくった」、「『善の研究』の中心概念は、・・・「純粋経験」ではなく「統一」ということなんです」、などなど、個別に興味深い論点は数多いのですが、私はちょっとまだ整理しきれていないし、読者もこれを契機に、自分で掘り下げて考えていけばいいのでしょう。そして対談は、最終的に、「自覚」の問題に行き着くことになるのですが、うーん、自覚。確かに西洋の哲学用語には、一対一対応する語はないんですよね。「自覚」へ至る人生行路を、「自叙伝」というスタイルで展開する近代日本思想・・・「自己意識」と「自己形成(Bildung)」との枠組みとは、やっぱり何かが決定的に違う。このあたりに、対談でも登場した、「道」とか、歴史や社会や近代への態度の取り方の問題がからんでくるとは思うのですが、これもちょっと私は整理しきれていません。
あとは宮川敬之さんの「和辻哲郎と表現の問題」は読みました。これはかなり長大であるうえに、やや難解でもあるので、苦戦したのですが、ただ表現―通路―交通という連関で、和辻の共同体論から芸術論までを射程に入れる、とてつもなくスケールの大きな論考で、これからどうなるのか、とても興味深い。続きもやっぱりラチオに載るのかな?
ラチオはここまで。これしか読んでいませんので。で、やっぱり「自覚」というと、あの御仁ですので、関連してもう一冊。
藤田正勝『西田幾多郎―生きることと哲学』岩波新書
ヘーゲル研究から出発し、近年では近代日本思想関連の作品も多い、藤田正勝先生による新書の西田論です。西田の人生と思想の展開の軌跡を追いつつ、ともすれば難解で常人の理解を拒むかに見える西田哲学に、芸術、行為と身体、宗教などといった側面から、身近な人生を照らし出す意義を与えなおします。
別にラチオにぶつけるつもりはなく、出てすぐに買っていたのですけどね。藤田さんのお書きになったものは、まず大はずれということはありえないし、西田関連の書籍では、そういうものは貴重ですから。何度も書いたことですけど、やっぱり西田は論じるかた次第でよくも悪くもなるところがあるので、永井均のものとかは、怖くて開く気にもなれないのです。
さて本書ですが、西田の思想を論じる箇所は、やはり期待通り、公平で明晰な概観が与えられており、久しぶりに、西田の思想の展開の流れと、忘れかけていた諸概念の諸関係を整理しなおすことができました。でも、やっぱり気になるのは、序章と第一章。西田の人生の悲哀を描き出し、西田哲学はそうした悲哀から生み出され、その意味を探るものであったのである、というような構図のはなしがされるのですが、これ、いるのかなあ?私も苦手なんですよね、この手のはなし。いや、私も「驚き」から哲学をはじめるほどお目出度くはないし、「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」(p7)という西田の見方には大賛成なのですが、でも、だからといってそれは、西田が実際に味わった「人生の悲哀」を西田の哲学の説明の入り口にすることとはまったく別のことだし、こういう探り方で「私の論理というのは学会からは理解せられない」と死の床で嘆いた西田が喜ぶとは、私には到底思えない。しかも出だしが倉田百三ってのがなあ・・・新書だからってことで、藤田先生もサービスのおつもりだったのかもしれませんけど。筆者と編集者の意図が読めないだけに、何とも評価のしにくいところですが、ちょっと残念な気はします。
ラチオはかなりきれいな装丁ですので、読むだけでなく、インテリアとしても使えます。重いですから、重りとしても使えますし。読んでよし、飾ってよし、乗せてよしの一冊ですので、藤田正勝『西田幾多郎』とあわせて、ぜひどうぞ。
雑誌を紹介。
『ラチオ 03号』講談社
「あらゆる問題を根本から考え直す新本格派の思想誌」、ラチオの第三号です。本号では「大特集 「日本の近代」とは何か」が組まれており、菅野覚明氏、熊野純彦氏、宮川敬之氏、大澤真幸氏らがそれぞれの視角から、縦横に日本の近代を論じます。
ラチオっていままで眺めているだけで手に取ったことはなかったのですが、やっぱり変わってますね。まず何より重い。「電話帳か!」と思わずつっこみを入れてしまいました。「大特集」が四つもあるのも謎ですし。そしてこの装丁で、価格が二千円・・・どういう採算が成り立っているのですかね。
今日買ったばかりなので、とりあえず次のものだけ紹介。
巻頭対談 菅野覚明vs.熊野純彦 「自覚」と日本人―近代日本思想史への試み
『詩と国家』で和辻倫理学への批判的な視角を打ち出した、倫理学・日本思想史がご専門の菅野覚明先生と、岩波文庫版・和辻哲郎『倫理学』の解説をお書きになった熊野純彦先生による、近代日本思想史をめぐる対談です。西田・九鬼・和辻・三木はもとより、透谷・漱石・大杉栄・小林秀雄などまで登場し、「近代日本思想とは何かという、骨格をとらえるような議論」への構想が、自由に語られます。
噂では聞いていましたけど、やっぱり色々な話題が咲き乱れて、繁茂していますね。まあお二人が対談したらそうなるし、論文ではなく対談なのだから、刈り込んで果実を取り込まなくてもいいわけですからね。ただここれだけ厚い雑誌なんだから、もうちょっとページを割いてくれてもいいのに、と思いますけど。ともかく、
菅野「文学者とか文体とかに関して言うと、私がぱっと連想するのは大杉栄です。・・・」
熊野「いきなり大杉というと、ふつうの読者にはちょっと唐突かもしれないけど、面白いのは・・・」
・・・
菅野「透谷と大杉はつながっている感じがする。左に大杉がいるとすれば、その右に和辻。」
熊野「和辻との対照項としての大杉、その大杉から、ベルクソンつながりで小林というのが、ひとつのラインとして確認されましたよね。一見、非常識極まる図式だけど。」
といった掛け合いを見ているだけでも、楽しい対談です。で、内容については、自叙伝的な書き方が「近代日本に固有のジャンルになるのではないか」というご指摘にはじまり、「漱石が代表するものと和辻的な思考との交錯が、近代日本思想史のポイントになることは間違いない」、和辻は自らの文体を「外国語の翻訳を経由して日本語をつくった」、「『善の研究』の中心概念は、・・・「純粋経験」ではなく「統一」ということなんです」、などなど、個別に興味深い論点は数多いのですが、私はちょっとまだ整理しきれていないし、読者もこれを契機に、自分で掘り下げて考えていけばいいのでしょう。そして対談は、最終的に、「自覚」の問題に行き着くことになるのですが、うーん、自覚。確かに西洋の哲学用語には、一対一対応する語はないんですよね。「自覚」へ至る人生行路を、「自叙伝」というスタイルで展開する近代日本思想・・・「自己意識」と「自己形成(Bildung)」との枠組みとは、やっぱり何かが決定的に違う。このあたりに、対談でも登場した、「道」とか、歴史や社会や近代への態度の取り方の問題がからんでくるとは思うのですが、これもちょっと私は整理しきれていません。
あとは宮川敬之さんの「和辻哲郎と表現の問題」は読みました。これはかなり長大であるうえに、やや難解でもあるので、苦戦したのですが、ただ表現―通路―交通という連関で、和辻の共同体論から芸術論までを射程に入れる、とてつもなくスケールの大きな論考で、これからどうなるのか、とても興味深い。続きもやっぱりラチオに載るのかな?
ラチオはここまで。これしか読んでいませんので。で、やっぱり「自覚」というと、あの御仁ですので、関連してもう一冊。
藤田正勝『西田幾多郎―生きることと哲学』岩波新書
ヘーゲル研究から出発し、近年では近代日本思想関連の作品も多い、藤田正勝先生による新書の西田論です。西田の人生と思想の展開の軌跡を追いつつ、ともすれば難解で常人の理解を拒むかに見える西田哲学に、芸術、行為と身体、宗教などといった側面から、身近な人生を照らし出す意義を与えなおします。
別にラチオにぶつけるつもりはなく、出てすぐに買っていたのですけどね。藤田さんのお書きになったものは、まず大はずれということはありえないし、西田関連の書籍では、そういうものは貴重ですから。何度も書いたことですけど、やっぱり西田は論じるかた次第でよくも悪くもなるところがあるので、永井均のものとかは、怖くて開く気にもなれないのです。
さて本書ですが、西田の思想を論じる箇所は、やはり期待通り、公平で明晰な概観が与えられており、久しぶりに、西田の思想の展開の流れと、忘れかけていた諸概念の諸関係を整理しなおすことができました。でも、やっぱり気になるのは、序章と第一章。西田の人生の悲哀を描き出し、西田哲学はそうした悲哀から生み出され、その意味を探るものであったのである、というような構図のはなしがされるのですが、これ、いるのかなあ?私も苦手なんですよね、この手のはなし。いや、私も「驚き」から哲学をはじめるほどお目出度くはないし、「哲学の動機は「驚き」ではなくして深い人生の悲哀でなければならない」(p7)という西田の見方には大賛成なのですが、でも、だからといってそれは、西田が実際に味わった「人生の悲哀」を西田の哲学の説明の入り口にすることとはまったく別のことだし、こういう探り方で「私の論理というのは学会からは理解せられない」と死の床で嘆いた西田が喜ぶとは、私には到底思えない。しかも出だしが倉田百三ってのがなあ・・・新書だからってことで、藤田先生もサービスのおつもりだったのかもしれませんけど。筆者と編集者の意図が読めないだけに、何とも評価のしにくいところですが、ちょっと残念な気はします。
ラチオはかなりきれいな装丁ですので、読むだけでなく、インテリアとしても使えます。重いですから、重りとしても使えますし。読んでよし、飾ってよし、乗せてよしの一冊ですので、藤田正勝『西田幾多郎』とあわせて、ぜひどうぞ。
第四十一回 哲学/倫理学セミナー 開催!
来る五月二十六日に、哲学/倫理学セミナーの第四十一回例会が開催されます。JR上野駅公園口前の東京文化会館にて、午後二時半より(会場と開始時刻がいつもと異なりますのでご注意ください!)、発表「資本主義のリビドー経済―ドゥルーズ=ガタリにおける「経済学批判」の可能性」が予定されています。自由参加となっておりますので、会場等の詳しい情報を必要とされるかた、哲学/倫理学セミナーについて知りたいかたは、下記のアドレスよりのアクセスをお願いいたします。
哲学/倫理学セミナー http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/
哲学/倫理学セミナー http://pe-seminar.hp.infoseek.co.jp/
中世国家の諸形態
和辻哲郎『倫理学』、時枝誠記『国語学原論』と、岩波文庫で名著の文庫化が進んでいましたが、今回は、それと同時期に刊行されていた名著の文庫版をご紹介。
佐藤進一 『日本の中世国家』 岩波現代文庫
戦後の日本中世史研究の立役者のひとり、佐藤進一氏による、この国の中世史研究の新たな段階を拓いた一冊です。律令期の国家の簡単な紹介ののち、特定氏族による官司請負制の進行していく王朝国家、王朝との避けがたい相互関係のうちにあり、その内部に王朝との関係をめぐる矛盾を孕んでいた東国国家・鎌倉幕府、そして幕府の対王朝外交の変移に対応していく王朝国家の反応がそれぞれ俎上に載せられ、東西の相互作用のなかで日本中世の国家の諸形態が描き出されていきます。
この本、日本史がご専門のかたならよくご存知の一冊なのでしょう。私も、網野善彦『異形の王権』に収録の同題名の論考の冒頭で、中世史研究の期を画す一冊として紹介されていたのをみて、その名前くらいは知っており、読んでみたいとは思っていました。ただやっぱり、文庫にでもならなければ、なかなか食指は伸びないので、ほんとにここのところ、岩波の文庫部門にはお世話になりっぱなしであります。
さて本書ですが、第一章「王朝国家」、第三章「王朝国家の反応」は、読み物としては悪くないけど、ちょっと研究としての卓越性は、私のような素人にはよく分かりませんでした。行政的な職務の遂行が収益に結び付く、そのような平安期の官庁運営方式が、日本所有権法史上の基本概念である「職」の原型ではないか、という指摘(p47)とか、網野が打ち出したような意味での後醍醐政権の「異形」さ(悪党や非人を戦力として動員し、自らの祈祷により人間の奥底の性的な力を政治的実力へと昇華させようとするような)とはまた異なった、後醍醐新政権のラディカルさ・破壊性の指摘とか、私にも興味深い指摘は、個別にはあるのですけどね。ただやはり、なんと言っても面白いのは、鎌倉幕府論の第二章。王朝との相互関係に注意を払うことによって、こんなに色々と見えてくることがあるのですね。頼朝の政治的譲歩の意味、頼朝死後の権力闘争の起因など、みんな王朝との緊張関係から見えてくるのです。平家の滅亡、義経・行家の没落により、逆に頼朝の軍事政権の弛緩と、その存在根拠の希薄化が生じ、王朝や寺社貴族への譲歩を余儀なくされたという指摘にはなるほどと思いましたし、石母田とともに頼朝の意気地のなさに憤っていた自分を恥ずかしく思い出しました。またこの間石井進さんの『鎌倉武士の実像』を紹介したときにも触れた、頼朝死後の敗者と勝者がくるくるめぐる権力闘争にも、王朝の手と影が伸びていたのですね(とくに北条時政の没落をめぐる、p110-1のあたりを参照)。どうも圧倒的な軍事的実力だけでは、なかなかすべてを変えるところまではいかないようで、やっぱり政治って、難しいものなんですね。
さてさて、その鎌倉幕府についてですが、あくまで武門の棟梁として、王朝とは独立した勢力に留まろうとする志向と、いわばその侍大将として王朝に密接に結び付こうとする志向、この二つの相対立する志向の緊張関係の上に鎌倉東国政権は成り立っていた、というのが本書を貫くテーゼになります。そして何れにせよ、やはり王朝国家との相互関係にある限りで、武門も国家としての秩序を整備していかなければならず、例えば恩給にしても、「それまでの御家人が棟梁頼朝によって直接の人間関係において捉えられていたあり方が、棟梁の家務機関(政所のこと)なる人間性を捨象した存在によって捉えなおされる」(p104)に至るわけですが、それに対する、幕府創業以来の功臣である千葉常胤や結城朝光らの反発が、とても興味深い。やっぱり国家が国家として成立していく過程で、「忠臣は二君に仕へず」と公言して憚らぬ彼らが切に求める、「生の人格の結合としての主従関係」みたいなものって、避けがたく変容され、切り捨てられていってしまうのですよね。最近は何を読んでも和辻と結び付けてしまうのですが、やっぱり「二人共同体」ではないですけど、ひととひとの直接的な関係が、国家という抽象的な枠組みに組み込まれることで、避けがたく失われていってしまうものって、あるように思うのですよね。まあ漱石との関係などの経験を通じて、そうした人間関係に対して、和辻はかなり醒めていて、諦めていた、ということはあるのかもしれませんけど。
『日本の中世国家』は建武の新政までですので、これを補うべく、もう一冊、文庫の紹介を。
今谷明 『戦国期の室町幕府』 講談社学術文庫
「中世史研究に一石を投じ高い評価を得た幻の名著」(本書の背中より)、『戦国期の室町幕府』の文庫版です。原本は1975年に角川より刊行されましたが、昨年六月に文庫化されました。本書では土地支配に基づかず、土倉・酒屋役や日明貿易など商業貨幣経済に依拠した室町幕府、という通説に対し、室町幕府の財政的基盤としての五山(禅宗の核となった、京都及び鎌倉の官寺)との関係に注目し、主に京都周辺で展開した室町幕府の統治システムの内実とその衰退の過程を描き出します。
この本は知らなかったのですが、せっかく『日本の中世国家』を読んだのだし、ということで手にとって見ました。私は「幻の名著」とか「幻の名酒」とかの謳い文句に弱い、展開的な日本人ですので。
で、室町幕府のあたりを論じたものはあまり読んだことがなく、ほとんど私にとってはブラックボックスのようなものだったのですが、それだけに本書で論じられていることはどれもこれも目新しく、いやあ、これは面白かったです。中世の権力を持った寺社勢力というと、反射的に「東大寺!興福寺!」と答えたくなってしまうのですが、この中世後期には、禅宗が政治的にも経済的にも室町幕府の統治システムの内部に食い込んでいたわけで、ちょっと視界が広くなった気はします。東班衆(禅宗系の寺院で経理や荘園経営など会計面を専門に行っていた禅僧の集団のこと)は、現在のサラ金・ヤミ金よりずっとえげつない金貸しなど、金融活動を活発に行い、荘園住民の支配における東大寺の古代的論理、みたいなものとは全く性格を異にしますしね。そしてこの禅寺に支えられた室町幕府も、国家のくせに、社会的なインフラの整備のための支出(本書のことばで言えば「投資的経費」)をまったく請け負わず、支出のほどんどが人件費や軍事費などの消費的経費であったというのが驚き。消費ばっかりして、再生産のための投資や建設をしない国家って、すごいですよね。国家っていっても、その歴史的形態は、色々であるようです。
ただ王道を行かないと、駄目になるのも早いわけで、やっぱりこの室町国家の末路は悲惨です。消費的経費の膨張は租税負担の増大を生み、「農業の再生産構造の破壊・縮小」をもたらすわけで、ここから繰り返す飢饉と、土一揆の続発を招く。さらに専制君主・六代将軍義教が嘉吉の変で殺されてからは、管領や有力守護の自立化も抑えられず、すべては応仁・文明の乱へと流れ込み、国は乱れに乱れる・・・で、応仁文明の乱=幕府崩壊という通説に対し、それ以後も幕府は公的な文章を発行し続けていたことに注目しつつ、軍事的に弱体化しつつもなお存続し続けた幕府の末路と、その存続を必要とした諸勢力の権力関係を追跡するのが本書の特色のひとつなのですが、応仁文明の乱以降の時期は悲惨で、もう世の中むちゃくちゃなんですね。細川晴元・三好長慶・松永久秀のあたりのはなしは、戦国時代ファンのかたがたにお任せするとして、茨木長隆が一向宗徒の大群を動かしてライバル・三好元長(長慶のお父ちゃん)を滅ぼしたところまではよかったものの、この一向宗徒が過激化して、当時の権力層全般に対して立ち上がる。権力側は今度は日蓮宗徒を動員するものの、結局一時的に畿内から追い払われる。こうして世俗権力の空白地となった畿内で、洛内は日蓮宗徒が取り仕切り、その周囲は一向一揆の農民軍が取り囲む、と、仏徒が処狭しと入り乱れまくるわけです。結局これらの門徒のエネルギーも、世俗権力の側に利用されて終わるのですが、政教分離が常識的な政治意識になった今日の日本から見れば、このあたりの混沌とした政治情勢は、なんとも恐ろしい。やっぱり生の人間関係を捨象してでも、しっかりしてくれないといけないようですね、国家というものは。上で書いたことと逆のことを書いているようですが、これはあくまで自己矛盾ではなく、当人としてはことがらの裏表のつもりでいます。
とまあ、今日はこのあたりで。どちらも日本史学の専門家でない人間にも読み応えのある、その意味で優れた研究書ですので、興味を持たれたかたは、ぜひ手におとりくださいませ。
佐藤進一 『日本の中世国家』 岩波現代文庫
戦後の日本中世史研究の立役者のひとり、佐藤進一氏による、この国の中世史研究の新たな段階を拓いた一冊です。律令期の国家の簡単な紹介ののち、特定氏族による官司請負制の進行していく王朝国家、王朝との避けがたい相互関係のうちにあり、その内部に王朝との関係をめぐる矛盾を孕んでいた東国国家・鎌倉幕府、そして幕府の対王朝外交の変移に対応していく王朝国家の反応がそれぞれ俎上に載せられ、東西の相互作用のなかで日本中世の国家の諸形態が描き出されていきます。
この本、日本史がご専門のかたならよくご存知の一冊なのでしょう。私も、網野善彦『異形の王権』に収録の同題名の論考の冒頭で、中世史研究の期を画す一冊として紹介されていたのをみて、その名前くらいは知っており、読んでみたいとは思っていました。ただやっぱり、文庫にでもならなければ、なかなか食指は伸びないので、ほんとにここのところ、岩波の文庫部門にはお世話になりっぱなしであります。
さて本書ですが、第一章「王朝国家」、第三章「王朝国家の反応」は、読み物としては悪くないけど、ちょっと研究としての卓越性は、私のような素人にはよく分かりませんでした。行政的な職務の遂行が収益に結び付く、そのような平安期の官庁運営方式が、日本所有権法史上の基本概念である「職」の原型ではないか、という指摘(p47)とか、網野が打ち出したような意味での後醍醐政権の「異形」さ(悪党や非人を戦力として動員し、自らの祈祷により人間の奥底の性的な力を政治的実力へと昇華させようとするような)とはまた異なった、後醍醐新政権のラディカルさ・破壊性の指摘とか、私にも興味深い指摘は、個別にはあるのですけどね。ただやはり、なんと言っても面白いのは、鎌倉幕府論の第二章。王朝との相互関係に注意を払うことによって、こんなに色々と見えてくることがあるのですね。頼朝の政治的譲歩の意味、頼朝死後の権力闘争の起因など、みんな王朝との緊張関係から見えてくるのです。平家の滅亡、義経・行家の没落により、逆に頼朝の軍事政権の弛緩と、その存在根拠の希薄化が生じ、王朝や寺社貴族への譲歩を余儀なくされたという指摘にはなるほどと思いましたし、石母田とともに頼朝の意気地のなさに憤っていた自分を恥ずかしく思い出しました。またこの間石井進さんの『鎌倉武士の実像』を紹介したときにも触れた、頼朝死後の敗者と勝者がくるくるめぐる権力闘争にも、王朝の手と影が伸びていたのですね(とくに北条時政の没落をめぐる、p110-1のあたりを参照)。どうも圧倒的な軍事的実力だけでは、なかなかすべてを変えるところまではいかないようで、やっぱり政治って、難しいものなんですね。
さてさて、その鎌倉幕府についてですが、あくまで武門の棟梁として、王朝とは独立した勢力に留まろうとする志向と、いわばその侍大将として王朝に密接に結び付こうとする志向、この二つの相対立する志向の緊張関係の上に鎌倉東国政権は成り立っていた、というのが本書を貫くテーゼになります。そして何れにせよ、やはり王朝国家との相互関係にある限りで、武門も国家としての秩序を整備していかなければならず、例えば恩給にしても、「それまでの御家人が棟梁頼朝によって直接の人間関係において捉えられていたあり方が、棟梁の家務機関(政所のこと)なる人間性を捨象した存在によって捉えなおされる」(p104)に至るわけですが、それに対する、幕府創業以来の功臣である千葉常胤や結城朝光らの反発が、とても興味深い。やっぱり国家が国家として成立していく過程で、「忠臣は二君に仕へず」と公言して憚らぬ彼らが切に求める、「生の人格の結合としての主従関係」みたいなものって、避けがたく変容され、切り捨てられていってしまうのですよね。最近は何を読んでも和辻と結び付けてしまうのですが、やっぱり「二人共同体」ではないですけど、ひととひとの直接的な関係が、国家という抽象的な枠組みに組み込まれることで、避けがたく失われていってしまうものって、あるように思うのですよね。まあ漱石との関係などの経験を通じて、そうした人間関係に対して、和辻はかなり醒めていて、諦めていた、ということはあるのかもしれませんけど。
『日本の中世国家』は建武の新政までですので、これを補うべく、もう一冊、文庫の紹介を。
今谷明 『戦国期の室町幕府』 講談社学術文庫
「中世史研究に一石を投じ高い評価を得た幻の名著」(本書の背中より)、『戦国期の室町幕府』の文庫版です。原本は1975年に角川より刊行されましたが、昨年六月に文庫化されました。本書では土地支配に基づかず、土倉・酒屋役や日明貿易など商業貨幣経済に依拠した室町幕府、という通説に対し、室町幕府の財政的基盤としての五山(禅宗の核となった、京都及び鎌倉の官寺)との関係に注目し、主に京都周辺で展開した室町幕府の統治システムの内実とその衰退の過程を描き出します。
この本は知らなかったのですが、せっかく『日本の中世国家』を読んだのだし、ということで手にとって見ました。私は「幻の名著」とか「幻の名酒」とかの謳い文句に弱い、展開的な日本人ですので。
で、室町幕府のあたりを論じたものはあまり読んだことがなく、ほとんど私にとってはブラックボックスのようなものだったのですが、それだけに本書で論じられていることはどれもこれも目新しく、いやあ、これは面白かったです。中世の権力を持った寺社勢力というと、反射的に「東大寺!興福寺!」と答えたくなってしまうのですが、この中世後期には、禅宗が政治的にも経済的にも室町幕府の統治システムの内部に食い込んでいたわけで、ちょっと視界が広くなった気はします。東班衆(禅宗系の寺院で経理や荘園経営など会計面を専門に行っていた禅僧の集団のこと)は、現在のサラ金・ヤミ金よりずっとえげつない金貸しなど、金融活動を活発に行い、荘園住民の支配における東大寺の古代的論理、みたいなものとは全く性格を異にしますしね。そしてこの禅寺に支えられた室町幕府も、国家のくせに、社会的なインフラの整備のための支出(本書のことばで言えば「投資的経費」)をまったく請け負わず、支出のほどんどが人件費や軍事費などの消費的経費であったというのが驚き。消費ばっかりして、再生産のための投資や建設をしない国家って、すごいですよね。国家っていっても、その歴史的形態は、色々であるようです。
ただ王道を行かないと、駄目になるのも早いわけで、やっぱりこの室町国家の末路は悲惨です。消費的経費の膨張は租税負担の増大を生み、「農業の再生産構造の破壊・縮小」をもたらすわけで、ここから繰り返す飢饉と、土一揆の続発を招く。さらに専制君主・六代将軍義教が嘉吉の変で殺されてからは、管領や有力守護の自立化も抑えられず、すべては応仁・文明の乱へと流れ込み、国は乱れに乱れる・・・で、応仁文明の乱=幕府崩壊という通説に対し、それ以後も幕府は公的な文章を発行し続けていたことに注目しつつ、軍事的に弱体化しつつもなお存続し続けた幕府の末路と、その存続を必要とした諸勢力の権力関係を追跡するのが本書の特色のひとつなのですが、応仁文明の乱以降の時期は悲惨で、もう世の中むちゃくちゃなんですね。細川晴元・三好長慶・松永久秀のあたりのはなしは、戦国時代ファンのかたがたにお任せするとして、茨木長隆が一向宗徒の大群を動かしてライバル・三好元長(長慶のお父ちゃん)を滅ぼしたところまではよかったものの、この一向宗徒が過激化して、当時の権力層全般に対して立ち上がる。権力側は今度は日蓮宗徒を動員するものの、結局一時的に畿内から追い払われる。こうして世俗権力の空白地となった畿内で、洛内は日蓮宗徒が取り仕切り、その周囲は一向一揆の農民軍が取り囲む、と、仏徒が処狭しと入り乱れまくるわけです。結局これらの門徒のエネルギーも、世俗権力の側に利用されて終わるのですが、政教分離が常識的な政治意識になった今日の日本から見れば、このあたりの混沌とした政治情勢は、なんとも恐ろしい。やっぱり生の人間関係を捨象してでも、しっかりしてくれないといけないようですね、国家というものは。上で書いたことと逆のことを書いているようですが、これはあくまで自己矛盾ではなく、当人としてはことがらの裏表のつもりでいます。
とまあ、今日はこのあたりで。どちらも日本史学の専門家でない人間にも読み応えのある、その意味で優れた研究書ですので、興味を持たれたかたは、ぜひ手におとりくださいませ。
今村仁司氏 死去
訃報です。東京経済大学教授で、フランス現代思想の研究で知られる今村仁司氏が五日、死去しました。六十五歳であったそうです。今村氏は京大大学院経済研究科出身で、マルクス研究者として出発後、アルチュセールやボードリヤールらフランス現代思想に関する作品を発表し、八十年代のフランス現代思想ブームの立役者のひとりとして活躍されました。また近年では、西洋近代哲学から深く学びながら、親鸞を再発見したことでも知られる明治期の宗教的思想家・清沢満之についての著作も発表されていました。主な著作に『歴史と認識―アルチュセールを読む』『排除の構造』『清沢満之と哲学』などがあります。
私は昨日の朝刊の訃報の記事で知ったのですが、池田晶子氏の訃報に続き、これにも驚かされました。なんといっても、まだ早いですよね、現役の教師でしたし。記事を読んで「ああ、もう六十五にもなられていたのか」と思ったほどで、もっとお若いイメージすらありました。
で、旧ブログ「院生の小窓」を立ち上げて比較的早い時期に、今村先生のものは二つ、『抗争する人間』(講談社選書メチエ)と『マルクス入門』(ちくま新書)とを取り上げたことがありました。一応その記事はこちらに移してあるのですが、かなり生意気で雑駁なことを書いていますので、検索してみつけても、怒らないでくださいね。まあ『マルクス入門』はとりあえずおくとして、『抗争する人間』のほうは、今思い出してみると、現代思想における社会をめぐる思考の要点(それも単なる学説の紹介ではなく、あくまで今村さん自身による消化を経た)がコンパクトに濃縮された、優れた一冊だと思いますし、この手の議論のあらましを知りたい方にはおすすめできる一冊だと思います。ただ、記事でも書いたように、暴力や欲望をその存立の条件とする人間社会に対し、それを越えた倫理の可能性を探るという、これ自体途方もなく大きく重要な、同書の末尾の議論は、やはりどう見ても、まださらなる展開の余地があったように思いました。そうした残された仕事を思うと、故人の心をあれこれ推量することはたいへん不躾なことではありますが、でもやはり、無念であったのかもしれないなと思わざるをえませんし、私もとても残念に思います。もしかしたら清沢満之がらみのお仕事でそれが果たされていたのかもしれませんが、でもやはりこの方は、紹介者に留まらず、自分のことばで語ろうとするかたでしたからね。
ともかく、その巨大な足跡に敬意を払いつつ、衷心より故人のご冥福をお祈りいたします。
私は昨日の朝刊の訃報の記事で知ったのですが、池田晶子氏の訃報に続き、これにも驚かされました。なんといっても、まだ早いですよね、現役の教師でしたし。記事を読んで「ああ、もう六十五にもなられていたのか」と思ったほどで、もっとお若いイメージすらありました。
で、旧ブログ「院生の小窓」を立ち上げて比較的早い時期に、今村先生のものは二つ、『抗争する人間』(講談社選書メチエ)と『マルクス入門』(ちくま新書)とを取り上げたことがありました。一応その記事はこちらに移してあるのですが、かなり生意気で雑駁なことを書いていますので、検索してみつけても、怒らないでくださいね。まあ『マルクス入門』はとりあえずおくとして、『抗争する人間』のほうは、今思い出してみると、現代思想における社会をめぐる思考の要点(それも単なる学説の紹介ではなく、あくまで今村さん自身による消化を経た)がコンパクトに濃縮された、優れた一冊だと思いますし、この手の議論のあらましを知りたい方にはおすすめできる一冊だと思います。ただ、記事でも書いたように、暴力や欲望をその存立の条件とする人間社会に対し、それを越えた倫理の可能性を探るという、これ自体途方もなく大きく重要な、同書の末尾の議論は、やはりどう見ても、まださらなる展開の余地があったように思いました。そうした残された仕事を思うと、故人の心をあれこれ推量することはたいへん不躾なことではありますが、でもやはり、無念であったのかもしれないなと思わざるをえませんし、私もとても残念に思います。もしかしたら清沢満之がらみのお仕事でそれが果たされていたのかもしれませんが、でもやはりこの方は、紹介者に留まらず、自分のことばで語ろうとするかたでしたからね。
ともかく、その巨大な足跡に敬意を払いつつ、衷心より故人のご冥福をお祈りいたします。
播州ぶらぶら節
連休も終わることですし、宿題をひとつ片付けてしまいたいと思います。四ヶ月にわたる名著の文庫化、グランドフィナーレです。
和辻哲郎著『倫理学(四)』岩波文庫
近代日本最大の体系的思想家・和辻哲郎の主著『倫理学』、初の文庫化の最終分冊です。本分冊では、空間・時間を人間の行為連関・間柄から解き明かす和辻倫理学の原理の応用問題とも言える、国民的存在・当為の問題をめぐる和辻の論述と、文明のはじまりから近代まで及ぶ歴史哲学(第四章第四節「世界史における諸国民の業績」)が収録されています。熊野純彦氏の解説もむすびをむかえ、戦前から現代に至る我が国の思想界における、和辻倫理学体系への様々な作用・反作用とともに、和辻の生の軌跡の終焉が描き出されます。
まずは慣例に従い、熊野氏の解説から。和辻の本文の終わり方は、体系の巨大さからみるとなんか寂しいのですが、解説のほうは、ほんとにグランドフィナーレという感じです。これまでの解説でも言及されてきた文献の一覧が「引用文献」として提示されるのですが、この国の一流の思想家・研究者がずらっと並び、まさに壮観の一言。『西洋哲学史』に続きひとりで、こういう近現代日本の思想界全体を総括するお仕事をなされるのだからなあ、熊野氏は・・・解説自体については、「一三 文脈―西田から三木へ」の箇所は大方以前読んだことがありましたし、「一四 時代―戦前から戦後へ」「一六 終焉―晩年の和辻から」の部分も、色々貴重な情報があり(古川哲史が伝えている、開戦直後の卒業試験のエピソードとか)、読み応えがあるのですが、やはり和辻倫理学体系の全体を追ってきた読者にとって、それを対自化して考え直すためにも一番有益なのは、和辻倫理学体系への様々な批判が紹介される「一五 批判―現代の論脈から」でしょう。湯浅泰雄氏のよく知られた批判(和辻倫理学の世界では、「ひと」は死ぬが自分は死なない)をはじめ、金子武蔵、市倉宏祐、宇都宮芳明、酒井直樹らの認定が紹介されていきます。まあこれらの紹介だけでなく、『差異と隔たり』以来の、熊野氏自身の見解も読みたかった気はするのですが、そこは文庫の解説ということで、今回は禁欲なされたのでしょう。で、面白かったのは、ぱっと見では意外な分量のスペースが当てられているようにも思えた、市倉の和辻批判。和辻体系の全体主義批判、みたいなものはよく繰り返されるわけですが、市倉氏はむしろ、そもそも和辻の体系には全体性の概念が成立しえてすらいない、つまり「個別を越える全体の恐ろしさというものが理解されなかった」ことを指摘するわけです。これは確かにそうで、考えたこともなかったなあ。和辻には醒めた現実主義者という趣きもありますが、その視線も、醒めてはいられない過酷な現実に注がれることは絶えてなかった、というところはあるのかもしれません。
そして本文ですが、王殺しのはなしとか、インドの階級対立のはなしとか、やはり本分冊の範囲では面白いところは決まっていて、あまり新しい発見はありませんでした。ただ、一番最後の、第四章第五節「国民的当為の問題」が意外と面白い、と思ったのは収穫でした。なんかここで和辻の好き嫌いが、他の箇所以上に、露骨に出ているように思えたのです。以前紹介した『理想』の高橋文博先生の論文が指摘していた、「天皇―国民」の統合の枠組みから、武士を排除していくという、戦後の和辻の日本文化・社会論の枠組みもうかがえますし、何より、やっぱり近代主義者・革新主義者はお嫌いなんだなあ、と。農業の機械化を主張する見解に対し、機械化論者の前提からちょっと怪しい推論を展開して、「そこで日本の農民の大部分は不必要となり、この国土は今の半分の人口しか養えないことになる」(p263)というとんでもない結論を導き出し、完膚なきまでに叩きのめそうとするあたりなんか、感動すら覚えます。同郷の柳田もたまに使うんですけどね、こういう論法(『木綿以前の事』などで)。そして続いて「紡績業が変革をもたらした以前の日本における衣料生産のやり方」に思いをはせる、という流れになるわけですが、こうなると、ちょっと手がつけられないよなあ・・・ただ、一応断っておきますけど、この記事は和辻の一側面を拡大して紹介しているだけで、和辻の論述自体は(すくなくともその表面は)もっと公平で、革新の必要も認めていますからね。誤解のないように、念のため。
関連して、文庫をもう一冊。
柳田国男『日本の伝説』新潮文庫
『遠野物語』で知られる日本の代表的民俗学者・柳田国男が日本各地の伝説を紹介する一冊です。当時の子供たちに向けて各地に伝わる伝説を取り集めて提示し、「春は野に行き、藪にはいって、木の芽や草の花の名を問うような心持ちをもって、散らばっている伝説を比べて見る」べきことを説きます。
別に柳田を読む動機はなかったのですが、ぶらっと入った古本屋の店員のお姉さんさんが綺麗で、品揃えは悪いけど何か買わなくては、という場面がこのあいだありました。で、さすがにフォイエルバッハやニーチェなどを買うのも何なので、柳田なら感じも悪くはないだろうと、これを買い求めたのでした。でも、これって、もともと子供向けのものだったのですね。まあ店員さんは、そんなとこまで気にしてはいないと思うけど・・・和辻と柳田がほぼ同郷の出身だというのは、しばし指摘されることですが、私はなぜか、和辻の原風景みたいなものにはまったく共感しないけど、柳田の描く世界には、多少惹かれるところがあります。柳田はそんなに熱心に読んでいるわけではないですけど。それに、私も柳田と同じく、神隠しにあうタイプの子供でありました。いやいや、ほんとに、神隠しとしか説明のできない幼児体験があるんです、私にも。まあ柳田の指摘するように、神隠しにあうような子供は大抵、長じてからは平凡な人間になってしまうものなのですけど・・・
さて本書は、特に紹介することもないのですが、和辻とからめて、一点だけ。「方々を飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かける」昔話に対し、伝説は「ある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長していく」ものとして冒頭で規定されるわけですが、でも、その伝説には、歴史に足跡を残した人物が各地で登場し、おそらく実際には当人が運ばなかったであろうところまで赴いたことになっていて、伝説としてその振る舞いが語り継がれているのがたいへん興味深い。弘法大師をはじめ、空也、親鸞、そして太閤秀吉や鎌倉景政などがそれにあたるわけですが、伝説の中ではみな日本各地をぶらぶらしていて、へんな連想ですけど、寅さんみたいだなあ、と。そこから連想はさらに進んで、「俺がいたんじゃお嫁にゃいけぬ わかあっちゃいるんだ妹よ」風のペーソスはもとより、あたりをぶらつく的屋のあんちゃんみたいのが、出る幕がないんですよね、和辻倫理学には。寅さんからいい加減離れても、例えば柳田や宮本常一が紹介するような、各地を流転する遊女とか、女だけで遠距離の旅行に出る婚前の女性とか、そういう日本の古層に光が当てられることもなく、女性でも事情は同様であるわけです。誰も待ってなんかいないのに、当て所なくぶらつく、ということがないのですよね、誰も彼も。湯浅氏の言い方を借りれば、「和辻倫理学では、だれもぶらつかないのである」、ということになるでしょうか。まあ無い者ねだりで、きちんとした批判にはなっていないのでしょうけど、例えば三木が「旅について」の印象深いエッセイを書いていることなどを考え合わせると、体系期の和辻にまつわる原理的な問題が・・・隠されては、いないか。
ぶらぶらとまとまりのない記事ですみません。ともかく、岩波文庫版の和辻哲郎『倫理学』、ついに出揃いましたので、まだ買い求められていないかたは、ぜひ手におとりくださいませ。
和辻哲郎著『倫理学(四)』岩波文庫
近代日本最大の体系的思想家・和辻哲郎の主著『倫理学』、初の文庫化の最終分冊です。本分冊では、空間・時間を人間の行為連関・間柄から解き明かす和辻倫理学の原理の応用問題とも言える、国民的存在・当為の問題をめぐる和辻の論述と、文明のはじまりから近代まで及ぶ歴史哲学(第四章第四節「世界史における諸国民の業績」)が収録されています。熊野純彦氏の解説もむすびをむかえ、戦前から現代に至る我が国の思想界における、和辻倫理学体系への様々な作用・反作用とともに、和辻の生の軌跡の終焉が描き出されます。
まずは慣例に従い、熊野氏の解説から。和辻の本文の終わり方は、体系の巨大さからみるとなんか寂しいのですが、解説のほうは、ほんとにグランドフィナーレという感じです。これまでの解説でも言及されてきた文献の一覧が「引用文献」として提示されるのですが、この国の一流の思想家・研究者がずらっと並び、まさに壮観の一言。『西洋哲学史』に続きひとりで、こういう近現代日本の思想界全体を総括するお仕事をなされるのだからなあ、熊野氏は・・・解説自体については、「一三 文脈―西田から三木へ」の箇所は大方以前読んだことがありましたし、「一四 時代―戦前から戦後へ」「一六 終焉―晩年の和辻から」の部分も、色々貴重な情報があり(古川哲史が伝えている、開戦直後の卒業試験のエピソードとか)、読み応えがあるのですが、やはり和辻倫理学体系の全体を追ってきた読者にとって、それを対自化して考え直すためにも一番有益なのは、和辻倫理学体系への様々な批判が紹介される「一五 批判―現代の論脈から」でしょう。湯浅泰雄氏のよく知られた批判(和辻倫理学の世界では、「ひと」は死ぬが自分は死なない)をはじめ、金子武蔵、市倉宏祐、宇都宮芳明、酒井直樹らの認定が紹介されていきます。まあこれらの紹介だけでなく、『差異と隔たり』以来の、熊野氏自身の見解も読みたかった気はするのですが、そこは文庫の解説ということで、今回は禁欲なされたのでしょう。で、面白かったのは、ぱっと見では意外な分量のスペースが当てられているようにも思えた、市倉の和辻批判。和辻体系の全体主義批判、みたいなものはよく繰り返されるわけですが、市倉氏はむしろ、そもそも和辻の体系には全体性の概念が成立しえてすらいない、つまり「個別を越える全体の恐ろしさというものが理解されなかった」ことを指摘するわけです。これは確かにそうで、考えたこともなかったなあ。和辻には醒めた現実主義者という趣きもありますが、その視線も、醒めてはいられない過酷な現実に注がれることは絶えてなかった、というところはあるのかもしれません。
そして本文ですが、王殺しのはなしとか、インドの階級対立のはなしとか、やはり本分冊の範囲では面白いところは決まっていて、あまり新しい発見はありませんでした。ただ、一番最後の、第四章第五節「国民的当為の問題」が意外と面白い、と思ったのは収穫でした。なんかここで和辻の好き嫌いが、他の箇所以上に、露骨に出ているように思えたのです。以前紹介した『理想』の高橋文博先生の論文が指摘していた、「天皇―国民」の統合の枠組みから、武士を排除していくという、戦後の和辻の日本文化・社会論の枠組みもうかがえますし、何より、やっぱり近代主義者・革新主義者はお嫌いなんだなあ、と。農業の機械化を主張する見解に対し、機械化論者の前提からちょっと怪しい推論を展開して、「そこで日本の農民の大部分は不必要となり、この国土は今の半分の人口しか養えないことになる」(p263)というとんでもない結論を導き出し、完膚なきまでに叩きのめそうとするあたりなんか、感動すら覚えます。同郷の柳田もたまに使うんですけどね、こういう論法(『木綿以前の事』などで)。そして続いて「紡績業が変革をもたらした以前の日本における衣料生産のやり方」に思いをはせる、という流れになるわけですが、こうなると、ちょっと手がつけられないよなあ・・・ただ、一応断っておきますけど、この記事は和辻の一側面を拡大して紹介しているだけで、和辻の論述自体は(すくなくともその表面は)もっと公平で、革新の必要も認めていますからね。誤解のないように、念のため。
関連して、文庫をもう一冊。
柳田国男『日本の伝説』新潮文庫
『遠野物語』で知られる日本の代表的民俗学者・柳田国男が日本各地の伝説を紹介する一冊です。当時の子供たちに向けて各地に伝わる伝説を取り集めて提示し、「春は野に行き、藪にはいって、木の芽や草の花の名を問うような心持ちをもって、散らばっている伝説を比べて見る」べきことを説きます。
別に柳田を読む動機はなかったのですが、ぶらっと入った古本屋の店員のお姉さんさんが綺麗で、品揃えは悪いけど何か買わなくては、という場面がこのあいだありました。で、さすがにフォイエルバッハやニーチェなどを買うのも何なので、柳田なら感じも悪くはないだろうと、これを買い求めたのでした。でも、これって、もともと子供向けのものだったのですね。まあ店員さんは、そんなとこまで気にしてはいないと思うけど・・・和辻と柳田がほぼ同郷の出身だというのは、しばし指摘されることですが、私はなぜか、和辻の原風景みたいなものにはまったく共感しないけど、柳田の描く世界には、多少惹かれるところがあります。柳田はそんなに熱心に読んでいるわけではないですけど。それに、私も柳田と同じく、神隠しにあうタイプの子供でありました。いやいや、ほんとに、神隠しとしか説明のできない幼児体験があるんです、私にも。まあ柳田の指摘するように、神隠しにあうような子供は大抵、長じてからは平凡な人間になってしまうものなのですけど・・・
さて本書は、特に紹介することもないのですが、和辻とからめて、一点だけ。「方々を飛びあるくから、どこに行っても同じ姿を見かける」昔話に対し、伝説は「ある一つの土地に根を生やしていて、そうして常に成長していく」ものとして冒頭で規定されるわけですが、でも、その伝説には、歴史に足跡を残した人物が各地で登場し、おそらく実際には当人が運ばなかったであろうところまで赴いたことになっていて、伝説としてその振る舞いが語り継がれているのがたいへん興味深い。弘法大師をはじめ、空也、親鸞、そして太閤秀吉や鎌倉景政などがそれにあたるわけですが、伝説の中ではみな日本各地をぶらぶらしていて、へんな連想ですけど、寅さんみたいだなあ、と。そこから連想はさらに進んで、「俺がいたんじゃお嫁にゃいけぬ わかあっちゃいるんだ妹よ」風のペーソスはもとより、あたりをぶらつく的屋のあんちゃんみたいのが、出る幕がないんですよね、和辻倫理学には。寅さんからいい加減離れても、例えば柳田や宮本常一が紹介するような、各地を流転する遊女とか、女だけで遠距離の旅行に出る婚前の女性とか、そういう日本の古層に光が当てられることもなく、女性でも事情は同様であるわけです。誰も待ってなんかいないのに、当て所なくぶらつく、ということがないのですよね、誰も彼も。湯浅氏の言い方を借りれば、「和辻倫理学では、だれもぶらつかないのである」、ということになるでしょうか。まあ無い者ねだりで、きちんとした批判にはなっていないのでしょうけど、例えば三木が「旅について」の印象深いエッセイを書いていることなどを考え合わせると、体系期の和辻にまつわる原理的な問題が・・・隠されては、いないか。
ぶらぶらとまとまりのない記事ですみません。ともかく、岩波文庫版の和辻哲郎『倫理学』、ついに出揃いましたので、まだ買い求められていないかたは、ぜひ手におとりくださいませ。













